今日授業でヤマザキマリ氏の「テルマエ・ロマエ」を紹介したところ、ちょうど学生の方でも研究室のライブラリーに最近入れてたらしい。古代ローマの風呂技師・ルシウスが、なぜか風呂におぼれているうちに日本の風呂にタイムトリップしてしまう話である。
この話がおもしろいのは、ルシウスがローマ市民でありインテリであるところのプライドに溢れすぎているが故に、事態を過剰に論理的に勘違いしていくところにあるのではないだろうか。私は土屋賢二氏のエッセイを思い出した。
ところでPh,D ☆さんは私の文章が穂村弘氏のものに似ているというのだが、私はそんな立派な文章家ではない。
私は「人に伝わらなければ意味がない」といった語――ナルシズムを嫌う。むしろ、ルシウスのように論理的勘違いによって何かを結果的に実現してしまうタイプを目指すものである。実現するのが風呂でも文章でも違いはないと思うのである。
あ、ちなみに私は、温泉旅行が趣味とかいう人種は大嫌いである。何こいつらは若い癖に湯治してるんだろうという感じである。ローマもそんな連中が多くいたから滅びたにちがいない。
「エヴァンゲリオン」でもただ女の裸を見せたいが為の入浴シーンとかがあったが、「風呂は命の洗濯よ」とか主人降格のお姉さんが意味ありげに言っていた。というのは、物語上、ロボットを運転する際に14歳の子どもがロボットの中にある母親の羊水的なものに浸されているからであった。だからなんなのだ、としかいいようがないが、――子どもから大人への道程は、マンガやアニメが描くよりも果てしなく長いものだ。羊水的なものを忘れ去ることは契機に過ぎない。