★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

温泉旅行は時間旅行

2010-11-05 19:18:41 | 漫画など


今日授業でヤマザキマリ氏の「テルマエ・ロマエ」を紹介したところ、ちょうど学生の方でも研究室のライブラリーに最近入れてたらしい。古代ローマの風呂技師・ルシウスが、なぜか風呂におぼれているうちに日本の風呂にタイムトリップしてしまう話である。

この話がおもしろいのは、ルシウスがローマ市民でありインテリであるところのプライドに溢れすぎているが故に、事態を過剰に論理的に勘違いしていくところにあるのではないだろうか。私は土屋賢二氏のエッセイを思い出した。

ところでPh,D ☆さんは私の文章が穂村弘氏のものに似ているというのだが、私はそんな立派な文章家ではない。

私は「人に伝わらなければ意味がない」といった語――ナルシズムを嫌う。むしろ、ルシウスのように論理的勘違いによって何かを結果的に実現してしまうタイプを目指すものである。実現するのが風呂でも文章でも違いはないと思うのである。

あ、ちなみに私は、温泉旅行が趣味とかいう人種は大嫌いである。何こいつらは若い癖に湯治してるんだろうという感じである。ローマもそんな連中が多くいたから滅びたにちがいない。

「エヴァンゲリオン」でもただ女の裸を見せたいが為の入浴シーンとかがあったが、「風呂は命の洗濯よ」とか主人降格のお姉さんが意味ありげに言っていた。というのは、物語上、ロボットを運転する際に14歳の子どもがロボットの中にある母親の羊水的なものに浸されているからであった。だからなんなのだ、としかいいようがないが、――子どもから大人への道程は、マンガやアニメが描くよりも果てしなく長いものだ。羊水的なものを忘れ去ることは契機に過ぎない。

日の暮れ近く

2010-11-05 17:53:13 | 文学


この感応は人間の内部の生命を再造する者なり、この感応は人間の内部の経験と内部の自覚とを再造する者なり。この感応によりて瞬時の間、人間の眼光はセンシユアル・ウオルドを離るゝなり、吾人が肉を離れ、実を忘れ、と言ひたるもの之に外ならざるなり、然れども夜遊病患者の如く「我」を忘れて立出るものにはあらざるなり、何処までも生命の眼を以て、超自然のものを観るなり。再造せられたる生命の眼を以て。

――北村透谷「内部生命論」

……私には何にもみえんが……畢竟、内部生命も純粋経験も観念に他ならず。ただし、こういう観念批判に私は飽きが来ている。「永遠に超えんとするもの」(「西方の人」)という言い方もいやだ。

「言ってやるがよい」話法

2010-11-05 02:30:59 | 文学
授業で黄表紙の話をしていて、頭にせりふの一つも浮かんでこなかったので反省した。梅暦も最後まで読んだかあやしいもんだし、一代女も果たして読んだかどうかあやしくなってきた。これではまともな授業はできないし、だいたい文学研究者として恥ずかしい限りだ。

それにしても読むべき本が多すぎる。

と、机の上にあった岩波文庫の「コーラン」を手にとってみると、神が神憑かったマホメットに「(やつらに)言ってやるがよい」というせりふを繰り返している。「聖書」の基督の言葉──「誠に汝らに告ぐ」より、神の言いたいことがよく分かるという意味では丁寧だ。なにしろ人間ではないところの神が直接言いたいことを言っている。そして思いあまって、異教徒の悪口をしゃべりまくる。私は「聖書」を読んでも神の実在について確信しなかったが、「コーラン」には確実にいる、神が。神憑りの人間に説教する、この方法を近代文学も採用した方がよいかもしれない。