★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

秋山英夫訳のウェルテルで長夜は泣くべし

2010-11-11 20:43:47 | 文学


さあ、ロッテ! 僕はひるまずに、このつめたい怖ろしい杯を手にとり、死の陶酔を飲みほします! これは、あなたが渡してくれたもの、僕はたじろぎません。すべてが!  すべてが!これで僕の生涯のすべての願いと望みがみたされるのです!死の青銅の門をたたくというのに、僕はこんなに冷静で、こんなに毅然としているのです。
 このように死ぬにしても、あなたのために死ぬのだという幸福にあずかりえたらと、切に思います! ロッテ、あなたのために、この身をささげるのだったら! あなたの生活の安静とよろこびをふたたびあなたにかえすのであれば、僕はよろこびいさんで死んで行こうと思います。しかし、ああ! 親しい者たちのために血を流し、その死によって、それに百倍するあたらしいいのちの火を友人たちにかきたててやることは、ただ少数の高貴な人たちにしか許されなかったことです。
 ロッテ、僕はこの服装のままで埋葬されることを望んでいます。あなたがこれに触れ、きよめてくださったのですから。お父さまにもこのことはおねがいしておきました。僕のたましいは、もう柩が上にただよっています。ポケットは探さないでください。この淡紅色のリボン、──僕がはじめて子供たちのあいだにいらっしゃるあなたを見たとき、あなたはこれを胸につけていらっしゃいました──。おお、子供たちには千度、接吻してやってください。そして、不幸な友人の身の上を話してやってください。かわいい子供たち! みんな僕のまわりに集まってきます。ああ、どんなに僕はあなたと結びついていたことか! あの最初のときから、あなたを放すことはできなかった! ──このリボンを僕と一緒に埋めてください。僕の誕生日に、あなたが贈ってくださったものでした! こうしたものに、僕はどんなにか、むさぼるように、とびついたことでしょう! ああ、あの道がこんなところに僕をつれてこようとは、考えてもいなかったのに! ─ ─ びっくりしないでください! ──おねがいです、びっくりしないで! ──  弾は込めてあります──十二時が打っています! では! ──ロッテ! ロッテ、さようなら! さようなら!」

 隣家の者が火薬の閃火を見、銃声をきいた。しかし、それっきり静まりかえってしまったので、それ以上気にもとめなかった。
 翌朝六時、従僕があかりを持ってはいって行った。彼は床に倒れている主人と、ピストルと血を見た。大声で呼び、主人のからだをつかんてみたが、答えはなく、まだ、のどをごろごろ鳴らしているだけだった。従僕は医者のところへ走った。それからアルベルトのところへかけつけた。口ッテは呼鈴を引く音を聞いた。戦慄が全身をつっ走った。良人を起し、ふたりは起きあがった。従僕は、わめくように、どもりながら、ことを告げた。ロッテは気を失って、アルベルトのまえへ倒れた。
 医者が来たとき、不幸な男は床に倒れたままで、もう手のほどこしようはなかった。脈は打っていたが手足はすべて麻痺していた。右の目のうえから頭を射ちぬいたのだった。脳漿が流れ出ていた。医者は念のため腕の血管をひらいた。血がほとばしった。呼吸はまだつづいていた。
 椅子のよりかかりのところに血がついていたことから推して、机にむかって坐ったまま自殺を決行したものらしく、それから床にすべり落ちて、身もだえしながら椅子のまわりをころげまわったのであろう。窓にむかって、ぐったり仰向けに倒れていた。長靴をはき、黄色いチョッキに青い燕尾服で、きちんと身ごしらえしていた。
 家が、となり近所が、町じゅうが大騒ぎになった。アルベルトがはいってきた。ウェルテルは寝床のうえにねかされていた。額には、包帯がしてあった。顔はもう死人のようで、手足はまったく動かなかった。肺だけがまだ気味わるく、ときに弱く、ときに強く、ごろごろ鳴っていた。臨終が追っていると思われた。
 ぶどう酒は一杯しか飲んでなかった。『エミーリア・ガロッティ』(ドイツの詩人レッシングの悲劇)が机の上に開いたままになっていた。
 アルベルトの狼狽ぶりやロッテの悲歎については、なにも言わないでおきたい。
 老法官は、しらせを聞いて、馬でかけつけた。彼は、あついあつい涙とともに死にゆくウェルテルに接吻した。そのあとを追って、まもなく上の息子たちが歩いてやってきた。彼らは、おさえかねる痛苦をおもてにあらわして、べッドのそばに突っぷし、ウェルテルの手に、口に、接吻した。彼がいつも一番かわいがっていた長男は、彼の唇にしがみついて離れず、とうとうウェルテルが息をひきとってから、みんなが無理に少年をひきはなしたのであった。正午の十二時に彼は死んだ。法官がいて手配をしたので、騒ぎはおこらずにすんだ。夜の十一時ごろ、法官は、ウェルテルがみずからえらんだ場所に、遺骸を葬らせた。老法官と男の子たちが、遺骸についていった。アルベルトは行けなかった。ロッテの生命が気づかわれたからである。職人たちが棺をかついで行った。牧師は同行しなかった。

(恋愛小説の授業のために、写してたら胸が疾風怒濤してきました……)