「高い山から谷底見ればノーイソレ 瓜や茄子の花盛りの ハリワヨイヨイヨイ」
この「高い山」という唄は、例の木曽福島のみこしまくりの時の唄だと思っていたが、どうやら全国各地で似たようなのが歌われているようです。南紀でもそっくりな唄があるとか……。
高い山から谷底を見ることのができるのだろうか、と思われる方もおられるだろうが、高い地点にきただけで、谷底が案外近くに見えたりするものである。そしてなぜか、谷底の瓜や茄子もありありとみえたりするのだ。高い山に登るとそんな不思議なことが起こるものである。下界では人の生き死には見えないが、高い山では眼前にさまざまなものが見える。
というのは、近代リアリズムに侵された私がまず抱いたイメージである。全体としてまあ性的な比喩かもしれませんね、もともとは。
中上健次「岬」の最後、矢尻のような岬が男性器の比喩として出てくるのは、編集者のアドバイスによるのだということを聞いたことがある。こういうエピソードはあまり面白くないが、確かに最後は余分だったような気がしてくる。高い山から谷底見ればノーイソレ♪と歌いたくなって仕舞いかねない。今日は熱を出して寝込んでいたのだが、うつらうつら「枯木灘」のなかの「兄妹心中」のくだりを考えていたら、なぜか、上の「高い山」の歌詞を想い出したのである。
言われてオキヨは仰天いたし 何を言いやんすこれ兄さまよ
わしとあなたは兄妹の仲 人に知られりゃ畜生と言わる
親に聞かれりゃ殺そと言わる
(オキヨは虚無僧に化けて兄様に刺される)
妹のオキヨにだまされた
ここで死ぬれば兄妹心中
兄は京都の 西陣町で 哀れなるかよ きょうだい心中