こいつはわたくしをいずれ喰う
松本零士の「男おいどん」は私のバイブルのひとつである。九州男児のおいどんは、上京して夜間高校に通う。が、仕事先を解雇されて高校も中退、あとはなんの仕事をやっても続かない。部屋には大量のパンツしかなく、そこからは大量のキノコが生えてくる。
私も、かつて、床が抜けかけ壁から植物の根が見え原稿を書く私の隣に鼠が正座しているような四畳半で暮らしたことがある。本があったから、おいどんに比べれば豊かすぎる環境であったが、おいどんが経験するような、友人も未来もない、だが時間はたっぷりある、という精神状態は知っている。これは非常にリアルな世界であって、高橋留美子の世界とは裏腹だがやはり時間が止まっている。明らかに絶望的だがそれ以外に慰安はない。いや、むしろそれ以外があるのかさえ定かではない。この世界を経験したものは、実際にそれ以外の状態に移行したとしても、現実感を得ることはできない。前にも書いたが、私はまだ予備校の寮とか、つくばのはずれにあった傾いたアパートでうつらうつらしているのかもしれないと思うことがある。
上の場面は、水浸しになったおいどんの部屋の壁が崩れ明治時代から戦前にかけての住居人の落書きが発見されるところである。おいどんはいつもいたのだ。過去の研究をする人間の中には、こういうシュチュエーションを忘れられない人間がいると思う。そうでなければ、過去は単に過去でしかない。
しかしそう思う私にもおいどんにも欠けているものがある。それは行為によって感情を生み出すエネルギーである。