★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

平成23年東京節

2011-01-18 23:50:06 | 音楽
東京の中枢は 丸の内~

××××(以下略)

××ビルディング


東京駅


ポッポと出る汽車 どこへ行く

ラメチャンタラ
ギッチョンチョンデ パイノパイノパイ
パリコト パナナで
フライ フライ フライ

東京で繁華な ××は

ふんふふんふふふん(以下略)

すし おこし 牛 天ぷら
なんだとこん畜生で お巡りさん
スリに乞食に カッパライ

東京で自慢は なんですね
××百万人 うようよと
米も作らずに くらすこと
タジレた都知事を 仰ぐこと
それにみんなが 感心に
都知事のいうことを よくきいて
豆粕食うこと 痩せること

トチジサンタラ
ケチンボデ パイノパイノパイ
思想モ ツメエリデ
フルイ フルイ フルイ

……東京にいったので作り直してみようと思ったが、疲れてやめた。

死後の主体

2011-01-17 23:39:03 | 文学
「子供に父と言わせられる人か?」
「そんなことを言ったって、……」
「駄目だ、いくら弁解しても。」
 妻は僕の怒鳴るよりも前にもう袂に顔を隠し、ぶるぶる肩を震わせていた。
「何と言う莫迦だ! それじゃ死んだって死に切れるものか。」
 僕はじっとしてはいられない気になり、あとも見ずに書斎へはいって行った。すると書斎の鴨居の上に鳶口が一梃かかっていた。鳶口は柄を黒と朱との漆に巻き立ててあるものだった。誰かこれを持っていたことがある、――僕はそんなことを思い出しながら、いつか書斎でも何でもない、枳殻垣に沿った道を歩いていた。
 道はもう暮れかかっていた。のみならず道に敷いた石炭殻も霧雨か露かに濡れ透っていた。僕はまだ余憤を感じたまま、出来るだけ足早に歩いて行った。が、いくら歩いて行っても、枳殻垣はやはり僕の行手に長ながとつづいているばかりだった。


……芥川の「死後」である。ここの場面は好きである。芥川を読んでいると、はやり文章は形が整っている必要があると思う。「僕」という主語を用いここまで張りつめた感じが出せるのは、やはり彼には有り余る能力があったような気がする。我々は、主体的であろうとすると、「私、常にキレそうです」と相手を脅すことを考えてしまうくらい、脆弱な状態をもてあましている。これでは芥川にすらなれない。

センター入試お疲れさまでした(棒読み)

2011-01-16 18:48:03 | 大学


センター入試終わりました。受験生のみなさん本当にお疲れ様でした(棒読み)
試験監督のみなさん本当にお疲れ様でした(涙目)

ここで、昔、入試に失敗しまくり、センター入試さっさと止めればいいのに、人生をやり直そう、と誓った私が、受験生のこれからの人生について回答してみよう。


問、今年のセンター入試はどうでしたか?

①満点の自信あるね→(実際そうである場合)→はやく挫折しろはやく挫折しろはやく挫折しろ
             →(違った場合)→勘違い、お疲れ

②しまった~いまいちの点数を盗ってしまった→大丈夫です。二次で逆転して下さい。無理な場合は浪人するか、そんなの無理という方は、大学院で志望校に入って最終学歴だけをひけらかすという手があります。その場合は、生え抜きのプライドだけ高いような方と骨肉の争い(←あれ?使い方違う?)をしなければなりません。レッツ・ふぁいと!(なぜこんなことを知っているのかって?私が似たような経緯をたどった人だからです……)

③全然できなかったよ、どうしよう→大丈夫です。入試だけが人生ではありません。しかし、頭と心はつながっているので、あなたは心も出来が悪いのかも知れません。気をつけましょう。

④人生オワタ→おめでとうございます。谷あり谷ありの人生にようこそ。思うに、一番あなたがこれから期待できるタイプのような気がします。

反復反復反復反復

2011-01-15 01:11:54 | 思想


図書館で借りてきたアダムス(←反復王)の「中国のニクソン」を聴きながら、キルケゴールの『反復』を読み直す。「反復を選んだ人、その人だけがほんとうに生きるのである。」大学生の頃は、こういう書物やチェスタトンとかに感激したもんだが、追憶でないところの反復と、キルケゴールやチェスタトンの言う、いわば「奇跡としての反復」が、そもそも区別できるもんじゃろうか、というのが私の日常生活における緊急課題である。明日はセンター試験である。毎回緊張を強いられ、まさにキルケゴールの反復ではないか!

じいさんブギウギ~ ヘイッ

2011-01-14 01:06:30 | 音楽


ニコニコ動画というのをご存じの方は多いだろうが、私が感心したのがその「登録タグ」である。近年、私がみる動画のタグには「おっさんホイホイ」というのが多かったが、この二日ぐらいは「じいさんホイホイ」にひっかかっている。

いま研究者が業績をネット上に登録するときに「キーワード」などを記す。つまり検索に引っかかろうとする下心満載なのだが、それがだいたいつまらん言葉で溢れている。今度私も「ポスコロホイホイ」とか「フェミホイホイ」とか「公共性ふぉいふぉい」とか書いてみようか知らん……

今日は、中上健次×尹興吉『東洋に位置して』の真剣な討論を読みながら、笠置シヅ子をニコニコ動画でずっと聴いていた。

笠置のブギが美空ひばりの歌謡にとって代わられた時点で「戦後」は終わっていたのかも知れない。私のお勧めは「買物ブギー」(服部良一作詞作曲)である。放送禁止用語満載で、文化と差別問題を論じようと思う学者は、この曲の分析からはいるべきである。というのは半分冗談であるが。「東京ブギウギ」にしても、負けた帝都であるところの東京ブギを歌えば、世界はひとつになるという、惨敗国にもかかわらず世界に攻めこもうという気概がすごいと思う。つまり、ここにルサンチマンがないのが、惨敗国である自覚が感じられて良いと思う。いまの「立ち上がれ日本」にはルサンチマン――つまらん邪心がほの見えるからいやである。また負けるぜこいつらは……

東京ブギウギー リズムうきうき
心ずきずき わくわく
海を渡り響くは 東京ブギウギー
[…]
ブギを踊れば 世界は一つ
同じリズムと メロディーよ
手拍子取って歌おう ブギのメロディー
燃ゆる心の歌 甘い恋の歌声に
君と踊ろよ 今宵も星を浴びて
東京ブギウギー リズムうきうき
心ずきずき わくわく
世界の歌楽しい歌 東京ブギウギー
ブギウギー踊れ歌え 東京ブギウギー
ブギウギー世紀の歌 歌え東京ブギウギー(ヘイ)

「カルメン故郷に帰る」の芸術大衆化っぷり

2011-01-13 05:03:27 | 映画


「カルメン故郷に帰る」をちょっと観なおす。

「銀座カンカン娘」でもそうだが、レビュー(裸踊り?)や酒場での歌唱を思い切って「芸術」と言ってしまいましょう、という主張がまことしやかに演じられるのが興味深い。いまみると、実際に戦前、オペラ歌手から発声を習ったという高峰秀子をはじめ、案外まともに歌っているので、ちょっぴり左翼色のある戦後の「芸術大衆化」(!)というコンセプトが、珍味で面白いものであったことを思わせる(笑)。それは、その後のいわゆるポピュラー・ミュージックや演歌とは別種のヘンテコなものである。カルメンが浅間山の麓でいきなり踊り出すときにかかる音楽が前衛的すぎると思ったら、作曲が黛敏郎だしね……。これに較べると「サウンド・オブ・ミュージック」の草原踊りなど、児戯に属する。というわけではないが、どうみても、カルメンは、頭がいかれたストリッパーには見えぬ。この程度で頭がいかれているのなら、これが普通に見えてしまう我々は本当に「総白痴化」しているのかもしれないのだ。

まあ私は、やや優等生的な「カルメン故郷に帰る」より、相方の子どもを国会議事堂前に捨てたり、前衛芸術家に恋したり、最後労働運動に加わったり(←そうだったっけ?)する、やりたい放題の「カルメン純情す」の方が好きである。





結論:秀子様最高

秀子様が若造文学者を蹂躙

2011-01-12 03:16:11 | 文学
チャールズ・テイラーの『今日の宗教の諸相』を読んでいたら、だからどうすりゃいいんだよすかぽんたんと言いたくなったので、秀子様に逃避する。

 

秀子様が、一歳下の三島由紀夫を女王様らしく蹂躙している対談が、別冊太陽の『女王女優 高峰秀子』に再録されていた。

三島が「君はニヒリスト」だから、とかそこらの馬の骨が言いそうな観念的で愚にも付かないことを言い始めるので「どうしてそういうこときめるの?」と言う秀子様すばらしいですね。女優に向かって「嫉妬という感情を知ってる?」とほざく三島に、「私、硫酸ぐらいぶっかけるわよ」と言った後にきちんと自分を分析してみせている秀子様は素晴らしいですね。

まったく、三島は一回死んでこい(あ、もう死んでたわ)

朝だよ、感染だよ

2011-01-11 08:05:45 | 大学
朝だよ、夜明けだよ


来年度は授業のやり方、というより内容を根本から考え直すことにした。
いままでのやり方の欠点がやや拡大して学生の欠点として現れているように一見みえるからである。しかし、これであまり授業内容を縮小する方向で考えない方がよいのはいままでの経験が教えるところであろう。学生の力量に即して内容を縮小し、ある方向性に「特化」(笑)するようなやり方は非常に危険である。こちらは欠点に即してケアしているつもりが、意外なところに影響が出てくる。はっきりしているのは、教育の方法というより、こちらのトータルな勉強量とか研究の質とかの方が、学生に反映されているところ大ということである。こちらをなんとなく模倣しているのが学生だと考えた方がよいであろう。

宮台真司とかがしきりに言っている「感染」は、現在、我々が考えるより容易に起こっているのだと思われる。ある研究室に配属される学生が、まだ何も教わっていないのに、指導教官の人間性の稚拙な模倣をはじめるのは案外よく見かける現象である。態度とか人間関係とかだけを真似るとかね。たぶん指導教官本人の前ではそんなそぶりはないが、本人が居ないところで本人になりかわっていかにもという感じで振る舞う。なにしろ、指導教官が他者に与える(すなわち自分に与えた)イメージの模倣なのだ。これは単に滑稽である。

あまり模倣が起こらない学生は、他に模倣すべき者が強力に存在している場合だろう。恋人なんかだったらまだましだが、例えば自分自身(笑)の場合もあるかもね……