★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

高峰秀子は生きている

2011-01-08 23:36:53 | 文学


高峰秀子の『にんげん住所録』を読みながら、クラフトワークの「The Man Machine」を聴く。

いうまでもなく、前者の方が後の作品である。

よく考えてみると、「にんげん住所録」といい、Yさんが死んだと聞き「私はノロノロと住所録のYさんの「氏名」の上に黒い線を引いた。」と書く高峰秀子、小津安二郎のことを「人間スフィンクス」という高峰秀子、自分を「金銭製造機」、人間を「ウンコ製造機」と言い放つ高峰秀子の方が、本気で人間を機械と捉えていたのかも知れない。高峰秀子とは、憎んでいた養母の芸名で自分の芸名且つ筆名であって、「S・カルマ氏の犯罪」ではないが、生身と名前が分離しているのが当たり前の人であった。「私という人間のドラマの主人公は、私ではなくて実は私の母その人であった」(「私の渡世日記」)。女であるかもあやしかった。──木下恵介には「秀ちゃんには女っぽいところなんか全然ないもの、立派な男です」と言われている。

そんな高峰秀子が、気が付けば映画界その他のしりあいが次々に亡くなっていて、その意味で、ますます生身が消滅していき思い出だけになっていることを綴っているような本であった。最後には「私の死亡記事「往年の大女優ひっそりと」」という文章まで現れる。

そのあと「あとがき」があるので、まだ高峰秀子が生きていることがわかってびっくりする。しかし私の文章をすっ飛ばして安野光雅の挿絵だけ見ればよい、と書いているから若干不安になった。

高峰秀子は生きている。