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疲れたので読んだ。
あらためて読んでみると、若い小説家に少なからず影響を与えているような気がするな…紡木たく。うまいね。
紡木たくの作品に限ったことではないが、主人公の気持ちは、他人の気持ちの変化に従ってのみ乱高下している。主人公には自我や自意識といったものがない。「私」がないといってもよい。「his love」なんかが典型で、相手が幸福になれば自分が恋愛の相手でなくてもよいのだ。というより、我々が考える恋愛が主体性と関連づけられているのがそもそもおかしいのかもしれない。「瞬きもせず」なんか、恋愛の成就が家族の回復と完全に一致しており、たぶん、少なくともコミュニケーションみたいな恋愛が問題じゃない。まあ、恋愛が「合意形成」だと思っている人間が読むべき作品である…なあ
といっても、ちょっと無理があると思うのが、主人公たちにほとんど目の表情というものがないことである。ぼーっとしている。いわさきちひろの子どもたちがそのまま高校生になったようである。もう少し塗れば、西原理恵子風のたどん目になるところだ。上の関係性そのものであるような心理とそれがよくあっている。が…、それがなぜ西原風な世界へ展開しないのか。
14頁にみられるように、少女の初恋の風景の陰に隠れて、彼女の通うクラスは学級崩壊している。
絵がのどかすぎて一瞬見落とすところであった。
かんがえてみれば、我々が中学校のころ、学級崩壊は、まだふつうののどかな「風景」だと思っている連中がかなりいた。つまりそれは恋愛模様と分離していなかったのかもしれないのである。いまもそうかもしれない。国民=民主主義教育?が、商人たちによって崩壊させられようとしているいま、私が迷うのは、もともと崩壊していたのだから…という思いからである。
紡木たくがみていたものは、かつての共同体にあった心理なのだろうか、何かを無視した結果なのであろうか、普遍的な何かなのだろうか。たぶん夏目房之助なら、その目にあるのは「虚無」です、といいつつ、手塚を否定した世代の漫画全般について語ってくれそうであるが、私は、それが虚無とは思えないのである。本当の虚無をみたのは手塚の方であり、それ以降はもっと具体的なものをみながら逃げ回っていたのではないのか。
逃げ回るのが心理的にきついので、自ら攻め込むことで新たな隠蔽工作に入ったのが、最近の「改革」ブームである。いろいろなかったことにして、いままでの過失を押し流すつもりである。