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作者の否定的評価を根拠にしてか、テンポ感が悪いともいわれる『ラッキー嬢ちゃんの新しい仕事』である(別に悪いとも思えなかったが…)が、これを読む前に、里見の「かね」を読んでいたので、考えることが多かった。
我々が苦しめられているものの一つに、未来へと続く時間が長く感じられないというのがある。不信感を基礎としたコミュケーションにおいてはそうなりがちなのだが、…要するに、なんらかの信頼が回復されたり他者から承認されたりといった物語が我々の脳裏で支配的となった事情とも関係があるということだ。そもそも、コミュニケーションは(本来はそうでないかもしれんが、その語感が…)やはり長時間には耐えられない形式のように思われる。体罰問題も、そんな時間意識が関係しているであろう。…と、抽象的に言えばそんなものだが、もっと具体的に言えば「脅しにはさしあたりの対処をするほかない」ということである。教育現場的に言えば「根本的に教育が不可能であると感じられたときには、対処療法しかない」ということだ。教壇に立ったものなら誰でも感じることだが、教壇に立つことは端的に暴力に身をさらす経験である。体罰に限らないが、他人に対する暴力の原因には、自らに対する有形無形の暴力に対するどうしようもない恐怖や絶望感というものが存在していると思われる。それは生徒であることもあるし、同僚や上司や社会であることもあるが、そんな自らに向けられている暴力性に対して反撃が禁じられているときに、必ずそのエネルギーが他に向くものであって、それは絶対的に不可避であると考えた方がよいと思う。重要なのは、暴力というのがさしあたりの対処を迫る、きわめて近い未来における決断を迫るものだということである。体罰も自殺もその現れだと思う。その対処を迫った本当の責任者が、表面上の加害者および被害者の他に必ずいる。最近の日本社会の特徴は、その責任者が「必ず」免責されているということであろう。
で、高野文子に戻ると、「ラッキー嬢ちゃん」の過去も未来も語られないことは重要であろう。事件が解決されればOKの世界であるが、それは主人公の境遇としては「ラッキー」が続く限りの世界だということでもあった。つまり失業せずにすんだという…。その世界は、一冊をかけてゆっくりと語られる。(事件はスピーディだが。その時間の分節性こそ「ゆっくり」という証である)これが、生きることに必死だが必死になれるほどナルシスティックにもなれない主人公の、里見の「かね」の世界になるとそうはいかない。未来は、スピーディに餅のように引き延ばされてゆく。主人公は、自らの境遇に一喜一憂している暇がない。読者も一喜一憂している暇がない。高野の世界は、その時間性が変わらずに主人公のラッキーが続かずに対処を迫られるようになれば、岡崎京子の世界になってしまうだろうし、体罰や脅迫が横行する我々の世界にもなり得る。…しかし、里見の描く世界が本当にそうではなかったのかは、よく考えてみなければならない、とわたくしは思った。近代文学の世界は「我慢」の世界であり、ほんとうのことだけは言っていない可能性が高いからだ……