朝焼夕焼食べるものがない(種田山頭火)
種田山頭火はどうだったか忘れたが、自由になるためには貧乏になることが重要であった時代もある。ほんとはいまだってそうで、金があると人間がそこにくっつく。気を遣って疲弊して行くのがせきのやまだ。その代わり貧乏だとカラダが死ぬ。
浅野いにおの『MUJINA IN TO THE DEEP』は、貧乏と疲弊の限界を超えるとある種の犯罪としての自由が開けているみたいな世界が描かれているように思うが、この人の世界は案外、七夕の話とか15少年漂流期みたいなところがあるから、たぶん自由では終わらない。
読書の時間というのは、自由の時間である。案外、読んでいる時間そのものは短かったりするものだ。これに対して、ネットの世界は、五感を全て映像に縛り付けられる時間が長い。テレビよりもずっと長い。これは疲れるはずだ。ということで、まだましなテレビをみていたら、先日、『光る君へ』総集編をやってた。一年間の本編と違い、源氏物語風に編集されていた。なにしろ「道長まひろ密通→子ども生まれた→宣孝死んだ」このあたりまで全部で5分ぐらいで、まさに読書のスピードとはこれなのである。だからといって、これはこれで物語の壮大さを毀損しない。
一方で、物語ばっかりになれると普通の時間、というより感情の長さが分からなくなりがちである。ネットでは、道長が紫式部の子どもが自分の娘とは気付いていなかった問題に対して、ツッコミをいれている人が多い。フィクションへのツッコミとしては定番であるが、――本気で惚れてしまっている人が陥る「不義への疑惑」というのは山よりも地球よりもでかいので、惚れたらむしろそういうことははっきりと確信をもてなくなるのが普通なのである。いわば「恋は盲目」な訳で、このドラマはその点、盲目性が二人の境遇と性格によって押さえられ、うまくいきすぎてるくらいである。
現代小説のアンソロジーぼおっとよんでて、急に緊張感あるやつきたと思ったら山田詠美だった。物語の山に向かってもったいぶったかんじをだしてくる、しかもこれが文章の上手さだと思っている現代の書き手が多いが、山田詠美はさすがに古典的なリアリズムの人で容赦ないかんじがわれわれの素直さに導く。現代は、こういう素直さを妨害する仕組みに満ちている。
第一に、声を出して読みたいなんちゃら――朗読である。教育界でも下手すると音読はあたまが良くなるみたいな話がときどき出てくる。範読の重要性はあるが、音読に多くの意味を被せすぎである。わたくしなんか、最近というか、かなりまえから、鷗外、一葉とか安吾とか大江とかを授業で読んでいると突然泣きそうになってしまうので、断固決然、黙読の伝統で近代文学を守り抜く所存だ。オープンダイアローグみたいなものもあれで、一度それらしきものに参加したことがあるんだが、とにかく自分がしゃべり始めると泣きそうで無理である。むろん、前田愛以来、近代文学の黙読性が強調されもするわけだが、おもったよりも朗読にも向いている作品も多いという感じはするのだ。黙読が多くされていたかもしれないが、朗読にむいていないとは限らない。なんというか、黙読性と朗読性が同時に強力に走るありかたがある。わたくしが、泣きそうになるのは、そもそもそういう状態に向かって作品が造られていはしないだろうかという疑惑である。
第二に、妙な思考力への誘いである。そういえば、国語における落ちこぼれの問題はあまり問題にしないことが倫理でもあったと思うけれども、国語教育が素朴さを失って妙に方法論的になってくると当然問題にしなくてはならないと思う。それは教育する側の問題なんだから。特に、テキストを半ば無視しても言語能力の発達を愛でるやり方は、そのあとの発達によってきちんとしたテキストとの扱い方ができると想定されているわけだが、ほんとにそんな都合よくいっているかな。そうはおもえない。国語は、基本、小学校から大学までゝやり方の反復であるべきである気がする。むろん、その場その場での工夫は必要だが、落ちこぼれても、国語のありかたが歪んでいないようにしないといけないと思うのである。弁証法的発展が難しい教科だと思う。