幼年時
私の上に降る雪は
真綿のやうでありました
少年時
私の上に降る雪は
霙のやうでありました
十七―十九
私の上に降る雪は
霰のやうに散りました
二十―二十二
私の上に降る雪は
雹であるかと思はれた
二十三
私の上に降る雪は
ひどい吹雪とみえました
二十四
私の上に降る雪は
いとしめやかになりました……
――中原中也「生い立ちの歌」
中原中也が苦手なのは、嘘つきだからである。
わたくしの卒業論文のゼミ生は、伝統的に体育会系も案外多い。人にもよるが、彼らが、――成功するかどうか分からないが食事とかも含めて一貫したことをどれだけやり続けられるかが勝負の分かれ目みたいなことを自覚している場合が多く、そこは安心である。問題は、それが学問も一緒だということにいつ気がつくかどうかだ。そして、おそらく競技と違って、そこに勝ち負けはなく、ほんとうはやる気に問題ですらないことに気付くかどうかがポイントなのである。
我々は行為の前に主体性があるような気がする訳だが、ほんとは逆である。我々は自分のコントールに関したものほど一貫性をもとめる傾向があって、文学や哲学もそういうものの表れであろうと思う。しかし、そういうとき、自分のことがよく分からなくなることを同時に拒絶してしまうこともあって、なぜかといえば、やる気になった局面を問いや疑問だと思っているからである。それも逆で、文学や哲学は、問いを見出す行為であり、むしろ偽の問いから本当の問いに遡行することなのである。
思春期で学ぶべきなのは、大人の作法とか諦念ではなく、人間は脳が発達しすぎたせいか、すごく偽の問題を問題だと思い込むという事態である。しかし、もはや指導者にその認識がないので、偽の問題に寄り添ってAIの回答みたいなのを押しつけている。そもそも、ネットやAIを開発している人たちがたぶん勘違いしているのは、我々の生が、疑問を解くことだと思っていることである。
いまでもよくある「お悩み相談」みたいなコーナーに有名人や学者が答えるみたいなのにもその傾向がある。そこにある悩みはかなりの割合で偽の悩みである可能性がある。人間、プライドに関わることは絶対に回避してしまう。そこででてくるのが「悩み」である。そしてそのその「悩み」へのアドバイスをもらうことで、本来は非難されたり指導されたりすべき事態を回避し、逆に慰められたりもするわけである。こういうからくりがいつも起こっているにもかかわらず、自分の弱点を肯定しろとか自分を好きになれとか言われて、ますます「悩」んでいる本人の思うつぼである。もちろん、人間そんな風にして安寧得るしかないときも多いけれども安寧による自己欺瞞の消去がおこなわれるひとは当然多く、はじめから処世術の奴もいるわけであって、――ほんとはどうなのかは、実際に、面と向かって付き合ってみないと分からない。教育が組織の中での集団行動で行われた方がよいのはそのためで、ネット上じゃ意見の戦争はありえても教育はありえない。