魚の国ではどこの部落も、よく神様にお祈りをあげました。神様が、みんなを可愛がって下さるからです。
竜宮の鯛の王様も、お祈りが好きです。ひらめの学校からは、毎年、竜宮へ留学生を出しますけれど、しばらくして戻って来るひらめの学校の生徒は、みんな立派になって戻って来ました。
そして、いつでも村の為になることばかりしようと競走します。魚の国にはお金はないけれど、みんなよく働き、みんな仲よしでした。校長先生はいつも、眼鏡をかけたまま学校のなかをゆらゆら泳いでいらっしゃいます。本当に、その眼鏡はひらめ学校の校長先生にふさわしのものでした。
――林芙美子「ひらめの学校」
なにゆえ日本の大衆文化において、いや純文学においても案外そうなんだが、――学園ものが多いのかはいろいろ研究されている。わたくし、ちゃんとフォローはしていないけれども、雑に言うと、ある種の自由さと拘束的な側面が組織の問題として処理されるしかない「人間関係」、もっといえば「社会」が、小から高までの学校でしか成立していないことと関係がある気がする。かえって、われわれは所謂「社会」にでると、もっと狭いところ、例えば会社と自宅に拘禁される。が、この拘禁には奴隷の自由がある。この自由から遁れることは、学校社会のしんどさに帰ることだ。だから、学校を嫌っていたはずの創作者たちでさえ、ユートピアを学校の中でしか想定出来ない。
ウィキペディアにも載ってるけど、バルザックは「結婚の研究が一番遅れてる」とか言っていた。学校の研究なんかをみんながやたらやりたがるのと対照的だと思う。みんながやりたがるということは、そこにしか修正の可能性はないと思い込んでいることと、どう修正されてもどうでもいいと思っていることと、裏腹だと思う。