★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

過程の時間の消失

2025-01-08 23:41:08 | 思想


 ストア派の人々も、賢者ならば、幻覚や妄想がやにわに立ち現れても、はね返せなくてはいけないと述べているわけではない。むしろ彼らは、人間はそうしたものから逃れられないのだとして、たとえば天にとどろく轟音とか、建物の崩壊には抗しきれずに、青ざめたり、わなわな震えたりすることを、受けいれている。それ以外の情念に関しても同じであって、賢者の知性がそっくり無事で、判断力の状態が、いかなる損傷も変質もこうむることがなく、自分の激しい恐怖や苦痛に対していっさい同意を与えることがなければいいのである。賢者でない場合も、第一段階は同じだけれど、第二段階がまったく異なってくる。というのも、情念の刻印が表面にとどまることなしに、理性の居場所にまでずんずん浸透していき、これを感染させて、腐らせてしまうのだ。そして情念によって判断をおこない、それに自分を合わせてしまうではないか。
 ストア派の賢者の状態を、この目でしっかりと確かめるがよろしい。

その精神は揺るがぬままで、涙がむなしく流れている。(ウェルギリウス『アエネイス』四の四四九)

 アリストテレス学派の賢者も、心の乱れをまぬがれることはできない。しかし、それを緩和しているのである。


――「エセー」(宮下志朗訳)


何かの衝撃が情念へ感染し、情念が理性に感染し、――しかし、ストア派の賢者において、その感染を涙に封じ込めるというのだ。

映画「エイリアン」なんか、そういう経路を大げさにオブジェの暴走として描いているようなものである。第一作や、今回の「エイリアンロムルス」なんかも、襲いかかるエイリアンの暴力による恐怖を、エイリアンという物体に封じ込めて、船外に吹き飛ばすところで終わる。泣く代わりに、吹き飛ばすわけだが、感情を物質に封じ込めるやりかたはおなじである。

しかしながら、エイリアンの男性器としての比喩にしても、現実に於いてそれほど極端なものであろうか。エイリアンという生物は生まれるとすぐでかくなる(数分としか思えない)。これは性的意味があるのでしょうがないとは言え、こんなに早く成長してくれたら世の中楽だ。この映画の物語は、企業が人間を完全生物にしようとする陰謀を遂行する話なわけだが、――子どもや思春期はいらない、生まれて二分ぐらいで即戦力とかでよい、という怖ろしい思想である。マルクスがいた頃の資本家の考えだ。これにくらべると、「ドラゴンボール」は、子どもから急に大人になるサイヤ人=エイリアンの話だが、やつらは子ども時代も結構ながいし、大人の体格になっても、永遠に小6から中1ぐらいの精神が続く。しかしこれはこれで成長は永遠にいたしませんという怖ろしい思想である。

当たり前であるが、フィクションが我々を二十四時間縛るようになると、過程の時間というものが消えるのである。上の「エイリアンロムルス」でも、あまりにエイリアンが人間の体内から誕生するまでが短いために、女性の妊娠期間の時間が消えている。

竹内好は五十代になってからスキーを始めて「老人スキー」とか称してたらしい。たぶん、中国文学者として、魯迅とロシア風をかけた洒落なのであろう。50で老人かよという反論は可能であるが、まだ竹内の場合は、五十年を長いと感じていたのだ。いまは、20代でも50代でも時間が消えているので、いつ何を始めても関係がない。これは幸福な場合もあるが、人生というものの消失でもある。


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