★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

悲望のなかの自虐

2013-06-12 23:33:30 | 文学
昨日は、ドラマ10の「第二楽章」の最終回を細君と観て、茫然としたまま無為な時間を過ごしてしまったので、今日はちゃんと本を読んだのである。



修士論文を書く前に、この人の八犬伝論を読んで、それが氏の修士論文であったという事実を知りあまりのプレッシャーで頭がフリーズしたことを覚えている。最近は、指導学生が里見×を論じているので、その評伝を読んだ。論じ方には疑問があるが、おもしろい本だった。

で、小説も読んでみた。研究者養成の大学院にいたことのある者なら、怒りと絶望が思い出されて、果ては冷や汗がでてくる小説である。漱石の影響が見られるような気がしたが、最後まで読んだらそうでもない気がした。私は、「浮雲」みたいな書き方の小説はあまり好きじゃない。だからといって、花袋の「妻」みたいなのもどうかと思う。「それから」は、問題の入り口に立っていたら、横から何者かが肘鉄を食らわせてきたような印象を受けて…というか、漱石の猫みたいな視線がいやなのである。私は漱石を批判した中勘助の方が好きである。…で、小谷野氏の小説はどうかといえば、よくわからない。自虐的瞬間のポイントが小説の中に旨く嵌まっていて、しかしその嵌まり方がどうもあまり好きにはなれなかった。氏は、他人に対しても自分に対しても案外社交的だと思う。私が「苦役列車」の人の作をあまり好きになれないでいるのもそのせいである。ストレスフルな場面で我々は涙か笑いで逃げたく思う癖がある。しかしそれは願望であって、小説やバラエティ番組では成立していても、現実のランダムな不幸の連鎖にそのような作戦は……