人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

愛とハタラキ

2016-01-07 14:58:13 | 
今の私は以前のように、書物を求めなくなってきました。
探究が終わったから?…いえ、頭もお金も回らなくなってきたからです。(笑)
それでも、何かの契機でつい昔の本の虫がもたげてくることも有ります。
年末、神田神保町の古書街をブラついていたら、”アッ!見っけ!”
老子の研究家、孤高の瞑想家ダンテス・ダイジの師、伊福部隆彦さん(ダイジによると老子の生まれ変わりだとか…)の本です!
しかし…”高ッ!”これでは年が越せそうにない…という訳で諦めていたのですが、今日は「無と人間」(近畿大学出版局)という本が案外手頃な値段で見つかりました。
これを捲っていたら驚きました!…”無為”という言葉の解釈を大抵の述者は、”為ス無シ”等と訓んで”為すこと”の否定という捉え方をしているに対し、この著者は”無ノ為(ハタラ)キ”と訓んじて、無そのものにハタラキを見ているのです。こういう捉え方というのは初めてです。
もっとも、生きてハタラくものに、ハタラかれる、ということは”為すこと”では無い訳で、二つにはつながりが有ると思われますが、”無”などと言うと、私も含めて多くの読者は、老子の無の境地に至るのは、実に常人からかけ離れた至難の道のように思い描いてきたことでしょう。
無の境地などというものが有るのかどうかはともかく、そもそも無なるものなしではどこにも導かれようが無い、ということなのです。
これまで幾多もの宗教、スピ系で散々説かれてきた”自我をお落とさなければならない、欲望から離れなければならない…”という”やってみれば!”としか言いようのない言葉というのは、悉くが(皮肉を言えば)”徒労”というものを知るためのものだった…とは言えないでしょうか?
無になるんじゃない、なろうとするんじゃない…無と共に…無に抱かれよ!…ということは伊福部先生が言うように”無の福音”でなくて何であろう…
この辺りの消息というのは、キリストの福音や弥陀の福音などで伝えられてきたものではありますが、それとて如何に”信仰、信じること”という命題の中で見えなくされてきたことでしょう…信じることというのは、我々の思いを信に転換させるもの、信じざるを得ないもの無くして起こりようが無いではありませんか?
聖霊、ダンマのハタラキ無くしてその内実は空無に至ります。
この恩寵のハタラキには、それに預かる我々の側から見て、自我的な縛りの無化(無くなるという訳でなく、雁字搦めの状態から解かれる、という事態)と、至福をもたらすエネルギー的なもののプレローマ(充満)という両面が有りますが、老子の無のハタラキ(あるいはブッダの空のハタラキについても)にはどちらかというと、前者の方がより感じられる気がします。
この無条件的なものがないがしろになる時、数多の”こうしなければならない、これでなければならない”といった条件付きの言辞が生まれてきます。
そして自称覚者というか…悟りなるものを得て、いつもそれを有している、と勘違いする者が何故はびこるのか…
悟りを自己の何ものかに依るものと錯覚し、”自己はただハタラキにハタラかれるだけである”という事実から意識が離れてしまうからではないでしょうか?

又、神の世界というものをこれまで何と我々は、凡俗から遠く、彼方に求めてきたことでしょう?
しかし、我々がこちらに有り、神仏があちらにお在すのではない…ハタラキがあって一つなのです。
それは又合い依り、合い成していくハタラキです。
この合い…というハタラキは愛としか言いようが有りません。
至福なるものの源泉です。
私はそれを力学的にハタラキと言い表すだけでは、どうしても足りないものを感じます。
呼べば、答える、という命の呼応…
神と言っても、私には到底それが何か、などといったことには答えられません。
でも…古来より人々は神なるものを敬ってきた理由は分かる気がします。
神なるものに、愛そのものの具現を見ようとしたのでしょう。
しかし、愛そのものに依らず、不十全に陥ってしまうと、たちどころに愛も憎しみや恐れに変じてしまうのは、我々の神の観念にも見て取れることです。
そこに転換させる力というものが無ければなりません。
愛は全てを生かす、永遠なる力学的ハタラキと切り離されるものでは無いのです。
ハタラキは愛によって宇宙法則といった冷たい抽象的なものから免れます。
全ては愛とハタラキ…。





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