”人生には裏側が有る”ということについて、実によく伝えているのは、タオ(道)の思想と呼ばれているものですね。
(改めて言ってるようで、どういう訳か初めて書いてるみたいですが、全くそんな気がしてません。きっと改めて書いてみようと思わなかったんだろうと思います。私のどっかにいつも隠れていて、出る時に出るようなものなので…)
古来より中国に伝わる老荘の思想、それを基盤にして派生した道教…。
その道教で人の生き方として重要な要素で”先天と後天”と説いているものが、まさに人生の裏側と表側というものに対応している、と思われます。
生まれる以前から、意念が起こる以前からあるもの、形、相対というものをを超えてあるもの…それが先天的な道。
でもそれだけだと生成とか変化というものが無い、一なるものが二になり形を表す…人間について言えば、生まれた後に知恵や業や方法とかが身に付いてくる…それが後天的な道。
「大道廃れて仁義あり」と老子道徳経にあるように、もう老子の時代には先天的な道は廃れてしまっていたのでしょう。
先天を忘れて後天に偏った生き方は不自由で、行き詰ってしまって危うい…時は乱世を極めていたのでしょう。ということで、老子や荘子は無為自然の先天の道に立ち返ることを強調したのですね。
しばしばこの老荘の道は”虚無的である”という言われ方をしますが、私はこれは老荘に限らず、中国の精神文化の特徴だと思っているのですが、インドの非二元論に見るすべて空無に帰してしまうような説き方と違って、そこには”人生をいかに生きるか”ということ、”生の肯定”というものが根底に有るように感じられます。
このことは、道の宗教的発展形としての道教に顕著に見られます。
諸々の修行法などを借りて楽しい、人生は”永世”にまで向けられているほどです。
(どこまでマトモでどこまで迷信かは判別しにくいです)
先天、後天というのは、人生あってのものなのです。
そして、道というのはそれらが一つに連ねられてあるものなのでしょう。
よくこの老荘的生き方、タオについて説明されているものに、”タオは体得されるべきものである…”といった言葉に出くわします。
(ここではより後天的?な顕れとしての道教とは区別しています)
ごもっともな意見には違いありません。
私は体得などした覚えが無いので、とてもエラそうなことは申し上げられません。
でも…前述のように元々我々が物心つく以前に与えられているものであるのに、そもそも体得する必要などあるのでしょうか?
むしろ、体得しよう…などという意念が起こり出したら、それこそ人為的計らいがもたげ出すのではないでしょうか?
無為自然と言う…自然というのは何も自然に帰るという事ではありません。
依存に依らない自立、自力的な事とも私は全く違うと思います。
むしろそれも”自分から…自分の力で…”というのは人為的なものの最たるものじゃないですか?
これは”自ずから”ということで全然違う意味合いになります。
”自ずから然らしむ…””そうなってしまう”としか言いようが有りません。
そうであってか、道教などとと違って、老荘には”こうすれば道を体得出来る”といった方法などは明示されてません。
もう講釈じみたことなどやってる場合では無い…ですね。
老荘はあらゆる講釈、修行を笑うかのようです…
かと言って、全く現実生活とかけ離れた事柄に偏るでもありません。
だから道はあらゆる後天的、人為的なものも包容してしまいます。
見えないものが顕わになる…
(改めて言ってるようで、どういう訳か初めて書いてるみたいですが、全くそんな気がしてません。きっと改めて書いてみようと思わなかったんだろうと思います。私のどっかにいつも隠れていて、出る時に出るようなものなので…)
古来より中国に伝わる老荘の思想、それを基盤にして派生した道教…。
その道教で人の生き方として重要な要素で”先天と後天”と説いているものが、まさに人生の裏側と表側というものに対応している、と思われます。
生まれる以前から、意念が起こる以前からあるもの、形、相対というものをを超えてあるもの…それが先天的な道。
でもそれだけだと生成とか変化というものが無い、一なるものが二になり形を表す…人間について言えば、生まれた後に知恵や業や方法とかが身に付いてくる…それが後天的な道。
「大道廃れて仁義あり」と老子道徳経にあるように、もう老子の時代には先天的な道は廃れてしまっていたのでしょう。
先天を忘れて後天に偏った生き方は不自由で、行き詰ってしまって危うい…時は乱世を極めていたのでしょう。ということで、老子や荘子は無為自然の先天の道に立ち返ることを強調したのですね。
しばしばこの老荘の道は”虚無的である”という言われ方をしますが、私はこれは老荘に限らず、中国の精神文化の特徴だと思っているのですが、インドの非二元論に見るすべて空無に帰してしまうような説き方と違って、そこには”人生をいかに生きるか”ということ、”生の肯定”というものが根底に有るように感じられます。
このことは、道の宗教的発展形としての道教に顕著に見られます。
諸々の修行法などを借りて楽しい、人生は”永世”にまで向けられているほどです。
(どこまでマトモでどこまで迷信かは判別しにくいです)
先天、後天というのは、人生あってのものなのです。
そして、道というのはそれらが一つに連ねられてあるものなのでしょう。
よくこの老荘的生き方、タオについて説明されているものに、”タオは体得されるべきものである…”といった言葉に出くわします。
(ここではより後天的?な顕れとしての道教とは区別しています)
ごもっともな意見には違いありません。
私は体得などした覚えが無いので、とてもエラそうなことは申し上げられません。
でも…前述のように元々我々が物心つく以前に与えられているものであるのに、そもそも体得する必要などあるのでしょうか?
むしろ、体得しよう…などという意念が起こり出したら、それこそ人為的計らいがもたげ出すのではないでしょうか?
無為自然と言う…自然というのは何も自然に帰るという事ではありません。
依存に依らない自立、自力的な事とも私は全く違うと思います。
むしろそれも”自分から…自分の力で…”というのは人為的なものの最たるものじゃないですか?
これは”自ずから”ということで全然違う意味合いになります。
”自ずから然らしむ…””そうなってしまう”としか言いようが有りません。
そうであってか、道教などとと違って、老荘には”こうすれば道を体得出来る”といった方法などは明示されてません。
もう講釈じみたことなどやってる場合では無い…ですね。
老荘はあらゆる講釈、修行を笑うかのようです…
かと言って、全く現実生活とかけ離れた事柄に偏るでもありません。
だから道はあらゆる後天的、人為的なものも包容してしまいます。
見えないものが顕わになる…