「よく見て下されよ。一であり、二であり、三であろうがな。三が道と申してあろう。陰陽二元でないぞ。三元ぞ。三つであるぞ。」(日月神示白銀の巻)
「道一を生じ、一二を生ず。二三を生じ、三萬物を生ず。」(老子道徳経第42章)
この現実世界は陰と陽、男と女、火と水…相対するものにより成り立っている、と普通に考えられて来ました。
私自身、催眠術にかかったように何度かそんな事書いたりしました。
でも…よくよく考えてみると…まんまと騙されていたようです…
これを陰陽論の陰謀と言わずして何だろう…
この世界は見た目に性質の相異なるものがあり、それぞれのハタラキがなされている訳ですが、それで何故上手く回って行けるのだろう…と考えたら実に不思議なことですね。
そこにはその相対するものをつないでいるものが有る、ということを想起せざるを得ません。
有る…何て便宜的に言ってますが、実際は見えません。
実体は無いのかもしれません。ハタラキそのものという気がします。
だから、それは異なる二者の間にあるものというイメージで捉えられがちですが、例えば黒と白の中間の灰色…といったように言い表すのは適当ではないでしょう。
それは両者のバランスよい折衷、というものでは無いのです。
人為的に折衷しようなどとしたら、多分グチャグチャになるだけでしょう。
それ自体でハタラいていて、それが相対次元に介入するものらしいです。、
このものにより、相異なるものに微妙な関係性というものが生じ、相対から相依の関係がもたらされるのです。
この相依…互いに引き付け合わせるものが愛というものなのでしょうか?
相対を超えたものがハタラく、そこに調和が生まれる…
これは…見えない裏の世界から顕現されてくるものなのでしょうか?
科学者はこうした三元的な道についてどう解き明かしているのか…浅学な私には分かりません。
このような表し方は、勿論現象というものに乗っ取っているものなので、全てを一なるものに帰してしまうような究極論のような事を言っているのではありません。
又、そうした非二元的な言説も、言い表す際には二元的な表現を借り、表れたもの自体二元的になるのは言うまでもありません。
そして私は極端な非二元原理主義というものに、違和感を覚えているうちに、知らず知らず一元でも二元でも無いものに導かれたように思います。
(というより、元々私に根付いていたものが呼び戻された、と言った方がいいかも知れません)
これを三元の道といってもいいかもしれませんが、レッテルは別にどうでもいいのですが、これからは見えるものとものの間の見えないものに意識が捉えられてくるようです。
極端な言説が飛び交うと見えない弁証法が生まれるのです。
日月神示…(三元的に言えば”日月地神示”、あるいは”一二三、ヒフミ”というのが正しい?)には「’(チョン)なくてはならんぞ。」とも示されています。
道というのはOO教とかOO主義といった相対化したものではありません。生きたハタラキとともにあってこそ開けるものなのでしょう…。
「道一を生じ、一二を生ず。二三を生じ、三萬物を生ず。」(老子道徳経第42章)
この現実世界は陰と陽、男と女、火と水…相対するものにより成り立っている、と普通に考えられて来ました。
私自身、催眠術にかかったように何度かそんな事書いたりしました。
でも…よくよく考えてみると…まんまと騙されていたようです…
これを陰陽論の陰謀と言わずして何だろう…
この世界は見た目に性質の相異なるものがあり、それぞれのハタラキがなされている訳ですが、それで何故上手く回って行けるのだろう…と考えたら実に不思議なことですね。
そこにはその相対するものをつないでいるものが有る、ということを想起せざるを得ません。
有る…何て便宜的に言ってますが、実際は見えません。
実体は無いのかもしれません。ハタラキそのものという気がします。
だから、それは異なる二者の間にあるものというイメージで捉えられがちですが、例えば黒と白の中間の灰色…といったように言い表すのは適当ではないでしょう。
それは両者のバランスよい折衷、というものでは無いのです。
人為的に折衷しようなどとしたら、多分グチャグチャになるだけでしょう。
それ自体でハタラいていて、それが相対次元に介入するものらしいです。、
このものにより、相異なるものに微妙な関係性というものが生じ、相対から相依の関係がもたらされるのです。
この相依…互いに引き付け合わせるものが愛というものなのでしょうか?
相対を超えたものがハタラく、そこに調和が生まれる…
これは…見えない裏の世界から顕現されてくるものなのでしょうか?
科学者はこうした三元的な道についてどう解き明かしているのか…浅学な私には分かりません。
このような表し方は、勿論現象というものに乗っ取っているものなので、全てを一なるものに帰してしまうような究極論のような事を言っているのではありません。
又、そうした非二元的な言説も、言い表す際には二元的な表現を借り、表れたもの自体二元的になるのは言うまでもありません。
そして私は極端な非二元原理主義というものに、違和感を覚えているうちに、知らず知らず一元でも二元でも無いものに導かれたように思います。
(というより、元々私に根付いていたものが呼び戻された、と言った方がいいかも知れません)
これを三元の道といってもいいかもしれませんが、レッテルは別にどうでもいいのですが、これからは見えるものとものの間の見えないものに意識が捉えられてくるようです。
極端な言説が飛び交うと見えない弁証法が生まれるのです。
日月神示…(三元的に言えば”日月地神示”、あるいは”一二三、ヒフミ”というのが正しい?)には「’(チョン)なくてはならんぞ。」とも示されています。
道というのはOO教とかOO主義といった相対化したものではありません。生きたハタラキとともにあってこそ開けるものなのでしょう…。