正月はとにかく初詣…
お寺にしようか、神社にしようか、神と仏とはどう違う、とかごちゃごちゃ考えんと、とにかくお参り…猫もお出迎え…
でなきゃ新年は始まらないの!誰が決めたか、国民的行事なんだからしょうがない…
”半分は観光、娯楽気分だからいいものの、この国民がこぞってマジメに(何の神だかはともかく、東の宮の方に向き出したらちとヤバイかも…)一斉に目覚めてしまったら一体どういう事になってしまうだろう”
これが気味悪くてしょうがないんですよね。
欧米の、また欧米化したある種の”フタをしておきたい”人たちには…
だからなるべく内実には触れさせないように、骨抜きにしておく必要が有るんです。
今はちょうど政府がオカシナ方向に行こうとしているし、”ホラホラまた悪夢の軍国主義が復活しますよ!”と言揚げしとかなくっちゃ…とかなんとか言うけれど…
悪夢の軍国主義はもういい、コリゴリです。あんなプロシア辺りの皇帝崇拝の借り物なんか…
この国にはね、”和をもって貴しとせよ…”という国振りがあって、今日の快晴の谷中あたりののどかな風情が合うんです。
大和魂が目覚めるという事は、宗教、思想のなんだかんだじゃなく、なんだろうと”神ながら言揚げせず…”と言う精神が目覚める、という事なんです。
やれ神学だの、お説教だの堅苦して深刻なのは、ちと似合いません。
初詣で賑わってる寺社を見て下さい。そこには聖域も日常の俗域の区別などありません。
宗旨が違うとか、次元が高いとか低いとか、清浄だとか不浄だとかの区別など無いのです。
どうも中に入るには、気が引けるような門構えも有りません。
”オープン、無条件でいいんだ”と促しているようです。
でもね、それでいて奥の院とか奥山と呼ばれている場所もちゃんとあるんです。
普通の人には気が付かないところにヒッソリ、とね。
それは…人生の裏側の出入り口の型どりというべきでしょうか?
やはり聖俗の区別のつかない空間に、ポッカリと時空を超えた世界への通用口が顔を出すのを表している様な…
見えないものを見えるものに表している型どり…諸々の宗教思想の教説も、どんなにエライ覚者さんも教祖さんも型どり以上のものではありません。
それ以上のものになってしまえば、型どりも偶像に堕してしまいます。
型どりとは、それを通してそれを超えてあるものへの気づきを示しているのです。
初詣では、多くの人は何かの願い事を祈るのでしょう。幸せになりたいがために…
”神様OOをかなえて下さい”と…神仏は願いをかなえてくれるものなのかどうかは、私は知りません。
でも、神というか自分を超えたものに触れたなら…(今の境遇はどうあれ)それは間違いなく幸せな事です。
だからいつも私が祈る時は、”私の全てにあなたが生きて働いて下さい…あなたが全てに現れて下さい…”というものが心象に有ります。
(決まった祈り言葉が有る訳じゃないです。)
神は我々の願いを聞いて下さるのか、平和をもたらしてくれるのかは分かりません。
しかし、神ご自体が幸福そのもの、平和、平安そのものなのです。そのものの顕現…
私の全てとは、私の世界、私の宇宙…自分と切り離されたような抽象的な世界のことではありません。
私の何もかも…これが皆さん一人一人の何もかもとつながってメデタシ…。
お寺にしようか、神社にしようか、神と仏とはどう違う、とかごちゃごちゃ考えんと、とにかくお参り…猫もお出迎え…
でなきゃ新年は始まらないの!誰が決めたか、国民的行事なんだからしょうがない…
”半分は観光、娯楽気分だからいいものの、この国民がこぞってマジメに(何の神だかはともかく、東の宮の方に向き出したらちとヤバイかも…)一斉に目覚めてしまったら一体どういう事になってしまうだろう”
これが気味悪くてしょうがないんですよね。
欧米の、また欧米化したある種の”フタをしておきたい”人たちには…
だからなるべく内実には触れさせないように、骨抜きにしておく必要が有るんです。
今はちょうど政府がオカシナ方向に行こうとしているし、”ホラホラまた悪夢の軍国主義が復活しますよ!”と言揚げしとかなくっちゃ…とかなんとか言うけれど…
悪夢の軍国主義はもういい、コリゴリです。あんなプロシア辺りの皇帝崇拝の借り物なんか…
この国にはね、”和をもって貴しとせよ…”という国振りがあって、今日の快晴の谷中あたりののどかな風情が合うんです。
大和魂が目覚めるという事は、宗教、思想のなんだかんだじゃなく、なんだろうと”神ながら言揚げせず…”と言う精神が目覚める、という事なんです。
やれ神学だの、お説教だの堅苦して深刻なのは、ちと似合いません。
初詣で賑わってる寺社を見て下さい。そこには聖域も日常の俗域の区別などありません。
宗旨が違うとか、次元が高いとか低いとか、清浄だとか不浄だとかの区別など無いのです。
どうも中に入るには、気が引けるような門構えも有りません。
”オープン、無条件でいいんだ”と促しているようです。
でもね、それでいて奥の院とか奥山と呼ばれている場所もちゃんとあるんです。
普通の人には気が付かないところにヒッソリ、とね。
それは…人生の裏側の出入り口の型どりというべきでしょうか?
やはり聖俗の区別のつかない空間に、ポッカリと時空を超えた世界への通用口が顔を出すのを表している様な…
見えないものを見えるものに表している型どり…諸々の宗教思想の教説も、どんなにエライ覚者さんも教祖さんも型どり以上のものではありません。
それ以上のものになってしまえば、型どりも偶像に堕してしまいます。
型どりとは、それを通してそれを超えてあるものへの気づきを示しているのです。
初詣では、多くの人は何かの願い事を祈るのでしょう。幸せになりたいがために…
”神様OOをかなえて下さい”と…神仏は願いをかなえてくれるものなのかどうかは、私は知りません。
でも、神というか自分を超えたものに触れたなら…(今の境遇はどうあれ)それは間違いなく幸せな事です。
だからいつも私が祈る時は、”私の全てにあなたが生きて働いて下さい…あなたが全てに現れて下さい…”というものが心象に有ります。
(決まった祈り言葉が有る訳じゃないです。)
神は我々の願いを聞いて下さるのか、平和をもたらしてくれるのかは分かりません。
しかし、神ご自体が幸福そのもの、平和、平安そのものなのです。そのものの顕現…
私の全てとは、私の世界、私の宇宙…自分と切り離されたような抽象的な世界のことではありません。
私の何もかも…これが皆さん一人一人の何もかもとつながってメデタシ…。