今をときめくカリスマブロガーA氏の過去記事に「巨大なタペストリー」という題で、このような意味の事が書かれていました。
”100人いたら100通りの違う世界が有り、それぞれに穴が有る。そこから光が差し込んでいるが、その出所は一つの巨大な光源である…”と…たはッ!んもう、こんなこと書いちゃって…
私は心から共感しました! これは個的な顕れとしての世界と大いなる、一なる世界との関係というものを実によく伝えていると感じます。
さすがは大御所! おそらく、これは彼が一瞥した時に感じたことをそのまま表現しているものなのでしょう…今の彼は…別人のように感じるのは私だけでしょうか? 今はもう、ストーンズのミック・ジャガーが歌っていたように、”どんなカラー(個的多様性)も要らない!みんな黒く塗りつぶしちゃえ!”(ペイント・イット・ブラック!)とひたすら叫び続けているようです…。
誰にも当てはまることなのかどうかわかりませんが、意識のシフトとか人生での重要な転換に巡り合った時、ある試練が待ち受けているものだと思います。それはそれまでずっと熱心に探究、求道の道を歩んできた者にとっては避けて通れないものかもしれません。
又、私のような自意識過剰な人間にとっても…”自分はついに悟った…悟った人間である”こういう思いというのがなかなか拭えないものなのです。
理性的な自分は、そういう思いに捉われるのは、エゴだと知ってますから、拭えない思いとは裏腹に”悟ったって大したことないんですよ~”などと呟いたりします。その発露は、肥大する自我を打ち消して、もっともらしいことを言う自分でなければならないという、もう一方の自我の思いかも知れません。(私はこういう事を否定的に言ってる訳ではありません)
探究心旺盛な人は、”悟りにはいくつかの段階が有って、究極のレベルなんてのが有るらしい…”なんて聞いたら、ジッとしていられなくなります。
アストラル・レベルなんかで留まってちゃダメなんですからねえ…
”常に悟っている人で居たい…究極の悟り…”こうした思いにまつわる誘惑こそが、試練と言えます。
そしてどこまでも現世にあって限界ある自己が、ニアヴァーナに達したと思しき自己に成りすました時、抜き差しならぬ事態になります。
これは眩いばかりの一瞥から日常に舞い戻って、再び思考があれやこれやの色の着いた情報に巻き込まれたり、色の着いた解釈をしたり、訳が分からなくなってどうしよう、こうしようとこれ又思考をめぐらした時に陥りやすいものです。
でも…真実は一つ…色の着いた話は置いて、原体験に忠実に、渦中で何を感じたか…それが全てを物語ると思います。
マルティン・ブーバーは「対話」の中で、自身の所謂ワンネス、神人合一と思しき体験について触れています。
ただ、彼自身は、「現存在や神性との合一が起こった…」などと僭越な事は言ってません。
又、「こんなことを確言するのは、責任ある認識には許されぬ誇張である」とまで述べています。
そして彼が預かった超個的な認識というものを「私が到達したのは私の魂の基底なのである…私の精神はそれを根源基底として理解せざるを得ないのである」としています。
私の理解では、これは喩えれば建物とその土台、あるいは本来無制限であるはずの土地との関係を言い表している、と思われます。
ま、表れている見たままの自分と見えない基底的自分…という事になりそうです。
この関係では平屋だろうと、超高層だろうと、同じ基底とつながっているものを想起出来ると思います。
区画され、制限された分際で無制限的な基底と同じである、と主張することが如何に身の程知らずなことか!
でも、それは根底において一つのものであることに変わりはない、のです。
ベルジャーエフは言う、「上下の関係を型どる位階的なものは、地上においてしか適応出来ない…」
霊的進化に対応した段階の如きもの…見えない世界でもピラミッド的位階構造に支配されては、永久に魂の平安などには預かれなくなりそうです。
仮にそういうものが有るとしたら、理解の度合といったもの以上のものでは無いでしょう。
”何をどう理解していようと、根柢には大いなる光源があり、それぞれの世界を映し出している”
私の限界内では、このような理解にしか行き着けません。
それに甘んじるより他ないのです。
もっと深い理解に預かるものかどうかは分かりません。
それは私の限界以上のものの思し召し次第とも、私の知らない私の意向次第と言えるでしょう。
確かな事は、私は私単独の世界に留まろうとしてない、という事です。
だから…今日もブログを書いています…
”100人いたら100通りの違う世界が有り、それぞれに穴が有る。そこから光が差し込んでいるが、その出所は一つの巨大な光源である…”と…たはッ!んもう、こんなこと書いちゃって…
私は心から共感しました! これは個的な顕れとしての世界と大いなる、一なる世界との関係というものを実によく伝えていると感じます。
さすがは大御所! おそらく、これは彼が一瞥した時に感じたことをそのまま表現しているものなのでしょう…今の彼は…別人のように感じるのは私だけでしょうか? 今はもう、ストーンズのミック・ジャガーが歌っていたように、”どんなカラー(個的多様性)も要らない!みんな黒く塗りつぶしちゃえ!”(ペイント・イット・ブラック!)とひたすら叫び続けているようです…。
誰にも当てはまることなのかどうかわかりませんが、意識のシフトとか人生での重要な転換に巡り合った時、ある試練が待ち受けているものだと思います。それはそれまでずっと熱心に探究、求道の道を歩んできた者にとっては避けて通れないものかもしれません。
又、私のような自意識過剰な人間にとっても…”自分はついに悟った…悟った人間である”こういう思いというのがなかなか拭えないものなのです。
理性的な自分は、そういう思いに捉われるのは、エゴだと知ってますから、拭えない思いとは裏腹に”悟ったって大したことないんですよ~”などと呟いたりします。その発露は、肥大する自我を打ち消して、もっともらしいことを言う自分でなければならないという、もう一方の自我の思いかも知れません。(私はこういう事を否定的に言ってる訳ではありません)
探究心旺盛な人は、”悟りにはいくつかの段階が有って、究極のレベルなんてのが有るらしい…”なんて聞いたら、ジッとしていられなくなります。
アストラル・レベルなんかで留まってちゃダメなんですからねえ…
”常に悟っている人で居たい…究極の悟り…”こうした思いにまつわる誘惑こそが、試練と言えます。
そしてどこまでも現世にあって限界ある自己が、ニアヴァーナに達したと思しき自己に成りすました時、抜き差しならぬ事態になります。
これは眩いばかりの一瞥から日常に舞い戻って、再び思考があれやこれやの色の着いた情報に巻き込まれたり、色の着いた解釈をしたり、訳が分からなくなってどうしよう、こうしようとこれ又思考をめぐらした時に陥りやすいものです。
でも…真実は一つ…色の着いた話は置いて、原体験に忠実に、渦中で何を感じたか…それが全てを物語ると思います。
マルティン・ブーバーは「対話」の中で、自身の所謂ワンネス、神人合一と思しき体験について触れています。
ただ、彼自身は、「現存在や神性との合一が起こった…」などと僭越な事は言ってません。
又、「こんなことを確言するのは、責任ある認識には許されぬ誇張である」とまで述べています。
そして彼が預かった超個的な認識というものを「私が到達したのは私の魂の基底なのである…私の精神はそれを根源基底として理解せざるを得ないのである」としています。
私の理解では、これは喩えれば建物とその土台、あるいは本来無制限であるはずの土地との関係を言い表している、と思われます。
ま、表れている見たままの自分と見えない基底的自分…という事になりそうです。
この関係では平屋だろうと、超高層だろうと、同じ基底とつながっているものを想起出来ると思います。
区画され、制限された分際で無制限的な基底と同じである、と主張することが如何に身の程知らずなことか!
でも、それは根底において一つのものであることに変わりはない、のです。
ベルジャーエフは言う、「上下の関係を型どる位階的なものは、地上においてしか適応出来ない…」
霊的進化に対応した段階の如きもの…見えない世界でもピラミッド的位階構造に支配されては、永久に魂の平安などには預かれなくなりそうです。
仮にそういうものが有るとしたら、理解の度合といったもの以上のものでは無いでしょう。
”何をどう理解していようと、根柢には大いなる光源があり、それぞれの世界を映し出している”
私の限界内では、このような理解にしか行き着けません。
それに甘んじるより他ないのです。
もっと深い理解に預かるものかどうかは分かりません。
それは私の限界以上のものの思し召し次第とも、私の知らない私の意向次第と言えるでしょう。
確かな事は、私は私単独の世界に留まろうとしてない、という事です。
だから…今日もブログを書いています…