人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

ハシディズムーデヴェクトと聖化ー

2016-01-24 12:40:32 | 哲学・思想
ユダヤ教神秘主義というと、一般にはしばしば魔術との関連で捉えられている、カバラーと呼ばれる体系が知られていると思いますが、哲学者マルティン・ブーバーにより、欧米の知識層を中心にもう一つハシディズムという流れが存在していることが知られるようになりました。
ただブーバーが表しているハシディズム像が、果たしてありのままのそれを伝えているかどうかは疑問です。
先のカバラーからの影響というものをブーバーは意図的に伏せている、という彼と同時代のカバラー研究者G・ショーレムなどの指摘もあります。
私はブーバーにそうした意図が有ったにせよ、その理由は理解出来る気がします。
おそらく迷信、俗信と隣り合わせの魔術的な要素を払拭したかったのでしょう。(勿論、魔術的なものが全てそういうものとは限りませんが)
もう一つには、彼の精神的故郷ヘブライズムを強調するあまり、カバラーを取り巻くヘレニズムに由来するグノーシス的要素を嫌ったのでしょう。(ショーレムとの論争にもこうした背景が有ったようです。)
又、カバラーとの関連でなくても、ハシディズムには数々の神癒、霊癒などの奇跡談もかなり伝わっています。こうした面でも一哲学者であるブーバーの態度は慎重でした。
ハシディズムとは、何よりも民衆の中に浸透し、それととともにあった神秘主義運動だったのです。
そこには教養の無い人たちも少なからず居たことでしょう。彼らには好事家たちの隠秘な高等魔術も、小難しい実存主義哲学とも無縁でしょう。
民衆の集まる広場などで、ツアディークと呼ばれる師家を中心に集団で熱狂的な祈りが交わされ、自然発生的な歌や踊りも表れ出す…
一度見てみたいと思いますが、こうした集会を連想させるものなら接した事が有ります。
原始福音の手島郁郎先生がハシディズムに親近感を覚え、交流するようになったのも頷ける気がします。
手島先生はこの流派に原始キリスト教の面影を見出したのでしょう。
しかし、原始教会とハシディズムとは知られざる連繋が実際にあったのかもしれないのです!
驚いたことにブーバーはキリスト・イエスを原ユダヤ教の継承者と捉えており、ハシディズムは又形骸化したユダヤ教に命を吹き込み、原ユダヤ教の再興をはらんだものであるとみていたのです。この場合には、ツアディークという存在(18世紀東欧のハシディズムの隆盛には、伝説の聖者バール・シェム・トーブの存在抜きには無かったと言えます)が神と人々との仲立ちとなることでキリストの職能の一端を担うのです。
それにしても、彼の反ヘレニズム指向(使徒パウロはイエスの中に生きていたヘブライ的伝統から逸脱させたとみていた)は何としたものでしょう…

私は、このほとんど聞きなれないハシディズムに、ジャングルジムを思わせるシンボル体系など、面妖な事この上なく、特権階級?の秘密宗教みたいなカバラーと違って、至ってシンプルなヘブライズムもヘレニズムもジャパニズム?も超えた汎世界的な原初的な宗教的有り様の表れを観ています。
その根底に生きづいている、デヴェクト(神への密着)という理念にそれを感じます。
彼らの多岐にわたる信仰の在り方、聖書の学び、祈り、瞑想、又魔術的な儀礼にさえ、”神と共にある”という意識をもって行われるのです。
常に神に意識が有ることで、信仰のための信仰、修行のための修行…(神と離れたそうした行いが一体何になるでしょう)という、意識の硬化、行いの因習化から防ぐことが出来ます。
このデヴェクトは又日常の労働、食事、娯楽…あらゆる営みにまで及びます。それらは前述の聖なる時間と区別されないのです。
この意図は日常生活を含めた全ての人間的生のにあるとされます。
ここに意味されるものこそは隠れていた聖なるものの、現実世界への転出ではありませんか!
聖なるものが現実に歩み出す時、個人の主観とされるものから共同的なものに歩み出されます。
あなたも私も(我と汝)も同じ聖なるものの現れを共有できるのです…。
イエスの「神の国が来た!」という福音ののろしもこうしたものを伝えようとしたのでしょうか?…

O以下の図書が参考になりました。
手島佑郎著「ユダヤ教の霊性ーハシディズムのこころ―」(教文館)
上山安敏著「ブーバーとショーレム―ユダヤ思想とその運命」(岩波書店)















コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする