人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

宗教哲学の意義

2016-01-17 12:08:10 | 哲学・思想
哲学なんて言うと、小難しくて敬遠してしまう人も多いかも知れません。
ま、人それぞれ気線というものが有る訳ですので、合う、合わないというものがあるのは、どうしたって仕方無いですね。
ただ、哲学というもの一般に付きまとっていると思われる先入観の一つに、ひたすら論証に明け暮れていて、現実の所謂真理なるものに結びついているのか、どうか分からないような(机上の)真理ばかり展開している…というものが挙げられるとでしょう。
これは多くは、所謂”講壇哲学”に帰せられるべき事だと思います。
こうした哲学の傾向は例えば、その学者の学説がその依拠する何らかの主義、学派に即したものに偏るなど、、いかにも”学問のための哲学”に終始してしまいがちになります。
一口に哲学と言っても、様々な形態があり、それらが全てでは無いのです。
宗教哲学と呼ばれているものでも、純粋に宗教的な事柄を扱うものばかりでなく、文学的なもの、民俗的というか、文化人類学的なものと関連付けているもの、科学的なアプローチをしているものなどが有り、実に宗教的なもののあらゆる周辺とリンクしているのです。
何であれ、現実の生きた真理に向けられ、開かれていない哲学など意味ないでしょう。
私は、このブログで度々触れているように、(それほど多く接した訳では無いですが)”宗教哲学”と便宜上分類されている学問にとても啓発を受けています。
(この分類は主として西洋哲学の流れの中で形成されました。御存知のように東洋の仏教、ヒンズー、儒教、老荘などの伝統では宗教と哲学の区別は曖昧です)
宗教哲学は宗教的な事柄について語られますが、宗教ではありません。
ということは、宗教にまつわる、教祖、教義、教団といった、我々を十重、二十重に取り巻く権威による隷属から自由だということです!
この事により如何に精神的健全性が保たれることでしょうか!
私はこれにより、他人の言説を無批判に信じ込むことから、自分自身である事柄について考え、掘り下げる、という心の姿勢が養われたように思います。
宗教哲学者は自らが、何らかの熱烈な信仰者である場合も少なくないですが、狂信者のように押しつけがましい、一方通行の信仰表明に走ることは、学の無い態度とみなされます。
信仰への安易な追従や護教論などに逃避することもあまりありません。
もっともより直接な宗教者からしたら学的であるあまり、理知的理解に逃避してしまう傾向も無い訳ではありません。
神というか根源的なものへのアプローチとしては、いささか直接性に欠ける面も有るのかもしれません。そのように思弁に偏りがちになる時は、宗教的直観にもすぐ意識を向き直ることも出来ます。
彼らは宗教がその道を歩む上で信仰や修行に則るのに対し、多く認識というものに則ります。
認識などというもので、神的なものに触れることなど無い…などと高を括っていてはなりません。
認識というものが参入~イニシエーションの役目を果たすことも有り得ることです。
その辺りが、知的認識に留まり、学的領域に閉じこもりがちな講壇哲学者との違いなのです。
宗教哲学者の中には、秘儀に通じた者も少なくないのです。
哲学的参入とは、宗教にありがちな一方通行のドグマへの自分の主体性を放棄した迎合ではありません。
自分の感性も思考も放棄されることなく、主体的に関わることです。
その過程で、それらが超えられてしまう事も有ります。
それは述者と読み手との共同作業とも言えるかも知れません。
宗教哲学は妄信にもつながる宗教とも思弁に捉われた所謂哲学とも違う、中途半端な様で、何かの”つなぎ”のようないかにも人間的な道と言えるかもしれません…。







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする