「偽善なるかな、律法学者、パリサイ人よ! お前たちは天のみ国を遮っている。自らも入ろうとせず、入ろうとする者たちに立ちふさがる。」(マタイ伝)
キリスト・イエスは「裁くな。裁かれん。」と言っているにも関わらず、律法学者たちには激しい言葉を投げつけていました。
彼らは当時の正統派を自認し、教権を有していた宗教家たちだったのです。
ゴータマ・ブッダの時代は、やはり教権はバラモン教によって牛耳られ、人々の生き方はカースト制により生まれながら定められていました。最下層の人間に至っては””です。
ブッダとその弟子たちはそれに対して”我々は何ものにも属していない!”という居り場を明らかにしました。それはイエスの一群と同じく”世捨て人”として生きる事でした。
…脱俗という事の意味は、こうした背景から導きだされる時、全く重みが違ってきます。
(普通の生活を持っていながら ”脱俗、超俗の境地に浸ってみよう…”などという我々現代人の居り場とはだいぶ違うようですね…)
そしてブッダは言った「諸行無常…諸々のものは移ろいゆく、常なるものは無し…」
宗教の代表のように目されているキリスト教も仏教も、実はこのように形としての宗教の否定として生まれ出たものなのです。
しかるに宗教は何教を問わず”唯一絶対の教え”を振りかざして、乱立しています。
我が国では21年前のオウム事件により審判が下された、と感じられた宗教も怪しいスピ系などのセミナーなどに形を変えるなどしてくすぶっているようです。
何度も触れているように、”ゆるぎない信仰”が、信仰熱心なこととみなされるようですが、固着した見解、信仰の捉われといったものが実は、自他の安心立命の道から遠いものだと、私自身の経験から言いたい…
(というかどうしても偏った定見にはついつい反応してしまうのです…)
もっともアブナイ人間というのは、常に”自分は正しい…正しいことを信じている”と思い込んでいる人間です。
自分だけがそうなっているんならいいです。信仰は自由だし、好き好きですから…でも彼らは正しい信仰を他に流布し、押し広める事に躍起にならずにおれません。
そして…いつも正しい人間は、自分のそのバカさ加減、ダメさ加減、無力さ、悪さ…といった自分のネガな部分に向き合おうとしません。正しいんですからね…
ということは、それは自分を超えた上よりの光、すべてを見通す眼の照らしに預かろうとしない…という事です。
ホントは向き合う必要も無いんです。(考えただけでも真っ暗な穴に入りたくなりますからね?…)”照らされる”という事が全てなのです。
照らされることで、ホントは正しいことも悪いことも、ダメなことも無いことが明らかになる…かも? (人によって感じ方、受け取り方が有りますからね。)
この意味は”魂が望んでいること”を心のどこかで気付いている人には何の説明も要らないでしょう。
彼らは放っといても、磁石が北を差すようにそちらに赴くでしょうから…
知らず知らず心がそちらに向けて開かれていくのを感じる事でしょう。
上に向かって開くと同時に横にも開かれていきます。
偏狭なセクト主義とはお別れです。
無理に心を開こうとしなくてもいいのです。
自分の心が開かれる先に、あの観照する眼が開かれているのです。
そして所謂正しい信仰に逃げてばかりいる人も薄々気付いているはず…
あの眼差しからはもはや逃げられない…と。
キリスト・イエスは「裁くな。裁かれん。」と言っているにも関わらず、律法学者たちには激しい言葉を投げつけていました。
彼らは当時の正統派を自認し、教権を有していた宗教家たちだったのです。
ゴータマ・ブッダの時代は、やはり教権はバラモン教によって牛耳られ、人々の生き方はカースト制により生まれながら定められていました。最下層の人間に至っては””です。
ブッダとその弟子たちはそれに対して”我々は何ものにも属していない!”という居り場を明らかにしました。それはイエスの一群と同じく”世捨て人”として生きる事でした。
…脱俗という事の意味は、こうした背景から導きだされる時、全く重みが違ってきます。
(普通の生活を持っていながら ”脱俗、超俗の境地に浸ってみよう…”などという我々現代人の居り場とはだいぶ違うようですね…)
そしてブッダは言った「諸行無常…諸々のものは移ろいゆく、常なるものは無し…」
宗教の代表のように目されているキリスト教も仏教も、実はこのように形としての宗教の否定として生まれ出たものなのです。
しかるに宗教は何教を問わず”唯一絶対の教え”を振りかざして、乱立しています。
我が国では21年前のオウム事件により審判が下された、と感じられた宗教も怪しいスピ系などのセミナーなどに形を変えるなどしてくすぶっているようです。
何度も触れているように、”ゆるぎない信仰”が、信仰熱心なこととみなされるようですが、固着した見解、信仰の捉われといったものが実は、自他の安心立命の道から遠いものだと、私自身の経験から言いたい…
(というかどうしても偏った定見にはついつい反応してしまうのです…)
もっともアブナイ人間というのは、常に”自分は正しい…正しいことを信じている”と思い込んでいる人間です。
自分だけがそうなっているんならいいです。信仰は自由だし、好き好きですから…でも彼らは正しい信仰を他に流布し、押し広める事に躍起にならずにおれません。
そして…いつも正しい人間は、自分のそのバカさ加減、ダメさ加減、無力さ、悪さ…といった自分のネガな部分に向き合おうとしません。正しいんですからね…
ということは、それは自分を超えた上よりの光、すべてを見通す眼の照らしに預かろうとしない…という事です。
ホントは向き合う必要も無いんです。(考えただけでも真っ暗な穴に入りたくなりますからね?…)”照らされる”という事が全てなのです。
照らされることで、ホントは正しいことも悪いことも、ダメなことも無いことが明らかになる…かも? (人によって感じ方、受け取り方が有りますからね。)
この意味は”魂が望んでいること”を心のどこかで気付いている人には何の説明も要らないでしょう。
彼らは放っといても、磁石が北を差すようにそちらに赴くでしょうから…
知らず知らず心がそちらに向けて開かれていくのを感じる事でしょう。
上に向かって開くと同時に横にも開かれていきます。
偏狭なセクト主義とはお別れです。
無理に心を開こうとしなくてもいいのです。
自分の心が開かれる先に、あの観照する眼が開かれているのです。
そして所謂正しい信仰に逃げてばかりいる人も薄々気付いているはず…
あの眼差しからはもはや逃げられない…と。