人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

自己と万法と道

2016-12-09 16:54:29 | 仏教関連
「仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり」(道元/正法眼蔵・現成公案)

おおよそ精神的な道について記された言明は数多あれど、この道元の言葉ほどそれを端的に言い表しているものを、私は他に知りません。
道元にあって、道とは言うまでも無く中国での如浄禅師との出会いが機縁となり、只管打座に徹することにより仏祖伝来の法灯を体受し、明らかにすることにあった訳ですが、ここに内実されているものは、神道、キリスト道、近年の新しい道…あらゆる道につながるものと言わざるを得ません。
自己…自己と離れて道は無い…万法に照らされる、証されることも無い…
ところが、この自己は自己であるままで、自己を忘れてしまうといいます。
自己を忘るる…離れてくる…けれど、それは決して自己喪失じゃない…一方でますます別なる自己に見えてきます。
それはこの世に生まれて、誰もがどうしても合わなければならない御方です。
”未生以前の自己”
あらゆるアレもコレもが、この大本の自己とつながり合っている…
そして有為的なものから無為的なものに転じてくる…
仏教もキリスト教も自力も他力も無い…
それは万法…全てを照らす光に照射されるから…です。
どうして道にある人は、その道のゆくところ、指し示す方向も定かでないのに、道を歩み出すのでしょうか?
無上の教典とかに記されていたからでしょうか?…
先師が確かな到達点といったものを約束でもしたのでしょうか?
いいや…道縁の人は、どうあっても、こうあっても歩み出さなければおれないものによって、歩み出すことでしょう…
それは、そうと知らずに、万法に照らされ、証されているからではないでしょうか?
万法の光の反射盤は未生以前の自己にあるらしいです。
だから、自己をよそにして道は無いのです。
”自灯明、法灯明”
道は歩まなければ彼の地に辿り続けないのかも知れません。
どう歩み、どう感じ、どう味わうかはそれぞれの機根によるのでしょう。
ですが、先にあるものを求めなくともすでに万法に照らされている、とも言えます。
そして、その営みのままが映し出されているのです。
そこに明かされているままが、それぞれの有り様において万法に証され、又証をしているのでしょう。

自己の内からの、自己を超えたところからのお照らしによって、自己を取り巻く諸々の覆いが一枚、一枚剥ぎ取られるにつれ、来た道も、過ぎゆく道も、来る道も、ここに在る道も…
衆生も、如来も、個的なものも、普遍的なものも…一連なりになってくるのでしょう…。























コメント
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