人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

全心、全霊を尽くして…

2016-12-13 17:15:10 | キリスト教関連
昭和53年からの二年ばかしの間のことが今日の契機において、果たしてあの時のような目まぐるしい、昂揚に満ちた数々の事象として展開するだろうか?…と考えるに今の私にはとても想像することが出来ません!
あれらの事はあの時、あの時の私においてだからこそ起きた事と言わざるを得ません。
この間、私の内には上っ調子な移り気とない交ぜになって、ある抑え難い希求が有りました。また同時に抗し難い促しをも受けていたのです!
”自分が一体何処へ向かおうとしているのか、どこに導かれようとしているのかは分からない…ただ自分の意志だか何ものかの意志だか、心根を突き動かすものに従うのみ…”というような思いが心部に横たわっていたのです。
その促しがより顕著になった昭和54年春、道院に定期的に通うようになって間もない頃、およそ10か月ぶりに原始福音の機関誌「生命の光」に巡り合いました。
ここに載せられていた手島郁郎先生の聖書講話は、その数あるものの中で特に印象に残っています。それは1959年12月の「詩篇第九篇」の講話で、先生の「詩篇講話」第一巻(キリスト聖書塾刊)に収録されているものです。
先生はそこで「全心、全霊、全力を尽くして、主なる汝の神を愛せよ!」というマタイ伝の聖句を引き、ある弟子とのやりとりを取り上げ、「あなたの信仰は二心だ。いつも上手に使い分ける。二つあったら、二つとも神に投げかけて信頼しようとしない。中途半端はやめなさい!」と語られるのですが、まるでその言葉は、私自身に向けられているように迫ってきました。
信仰云々という事はともかく、私の心はあの宗教やこの道やで分裂していて、いかにも中途半端ではないか!…チッポケな頭の尺度に合うものだけで真とか正しいとか判断しているばかりで、ひたぶるに全心、全霊を以て踏み込み、投げ出すことが出来ない…だが、さりとて中々そんな心境にはなれない…こういう煩悶が初めて起きてきたのですが、心のどこかにこの主一無適な道心が根付いているからこそでしょう。これが意識の内から表出されたのです。
けれど、テンデバラバラな心をどうやって統一など出来るでしょうか?
全身、全心、全霊…そうなろう、と一生懸命努めようとするのは部分的意念、信念ではないでしょうか? ”ついに私は捉えたこれが究極の真理…”といったものは大方はそう思えた、信じたものをその部分的信念に取り込んだ、というに過ぎないのではないでしょうか?
これは全一的なもの御自体に捉われなければそうならないのです!
私はこの数年後、この事を全心全霊で示されたのですが、この時そのことを予感させるものに意識が捉えられたのです。
そして、こんな思いが強く脳裏に過りました。
”私の魂は、この全人格、全人生を揺さぶるようなものに出くわさないことには、絶対に充足することも無く、平安に憩うことも無いだろう…”
世の中には宗教的遍歴者、最近ではスピリチュアル・ジプシーと呼ばれる人たちが居ます。
私自身もそういう人間に見られたりもしたのですが、彼らは自らの魂の結節点というものを見出したのでしょうか?(そうであったらそう呼ばれなくなるでしょうか?)そもそも、そういうものを求めているのだろうか?…それとも彼らはずっとどこに導かれるでも無く、ある道からある道へと渡り歩くこと、遍歴すること自体に意味、楽しみを見出しているのだろうか?…(どう歩もうが自由ではありますが…)当時の私はどっちに転ぶか分からない状態にあったのは確かな事でしたが、このように道を歩むということは、道楽じゃない、全人格に関わるものである、というある指針が与えられたのです。
この事から又数日後、小池辰雄先生との出会いに導かれることになったのです。
このような事は既に、私にあの導きというものを身に覚えていたからこそだった、と思います。
それでも私は直ちに手島先生、小池先生との機縁から原始のキリストへの道には踏み出すことはありませんでした。
結果的にこの世のどんな宗教にも道にも無く、又それらに、誰の魂にも息づいている、あの見えざる道にしか、この頑で、迷った魂は砕かれることは無かったのです。
しかし、その契機はこの機縁から私の意識に根付き、息付いたのは確かな事です…。








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