人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

第三の感覚

2016-12-03 00:09:56 | 哲学・思想
我々は、”人間には肉体が有って、精神が有る…”と、当たり前のように認識しています。
これらは別々に存在していると、これまた普通に思われているようです。
そして肉体に付随するものは具体的で、精神のそれは抽象的なものとされているようですが、この観方自体実に抽象的に感じられます。
肉体に付随する感じのものは、具体的というより、ある種の質量感といったものでしょうか?
私が生き生きとしたものを真っ中心に、直に何かを感じさせられるのは、物質的、肉体的なものではありません。
じゃ、精神なのか?…いや、生の充実について思う事はあっても、頭がそれを実感する訳じゃありません。
これは…”どっちでもあって、どっちでも無いもの”としか言いようがありません。
精神でも肉体でも無い…何だ?…霊か?…何だか分からないものはスピリチュアルという不透明なもので括って、誤魔化しとけばいいでしょうか?
実は…今更なんですけど、私は今までここでずっと、こういうミッシングな領域について書いてきたのです! 当たり前のように感じてきたものなのですが、言葉で言い表せないものなのです。
人は多くというもので、この辺りの何がしかの事を言い表してきたのかもしれません。
つまり、心に思うのじゃなくて、心に感じる何かを…
ジンジンしてくる、見に覚える(これは思い描くことと区別するためにそう言っているもので、身体感覚のことじゃありません〉、上よりの観照…全てこの関連で述べているものです。この領域は勿論、見えざる導師と交わり、現臨が臨む場でもあります。
常にある種の感覚が伴っているもので、これによりとても具体的に感じられるものです。
感覚、感じられるもの無くして具体性というものは無いでしょう。(そう、それは思われたものでは無い)でもそれはある固定したモノに付随したものでは決してありません。
(形は無くとも、現にこうしてジンジンと…アリアリと…ああ、それなのに…言葉じゃ伝わらんでねーの!)
具体的とは現実から離れないという事です。現実とは思われている以上にリアルなものです。
以前は”内的感覚”などともっともらしく言っていましたが、段々内とか外とかは曖昧になってきました。
これは”上より…”といった外部から浸透してくる感じ、包まれる感じが強く感じられて来るようになった、とも言えるかも知れません。
霊という事に関してですが、成程この感じは、通常の感じとは違って霊なるものがハタラくのかもしれませんが、言うまでも無く異次元とか前世とか何かの陰謀とか妄想を掻き立てる方向には行きません。果てしなく馳せて行く思いはこの現実感覚によりブロックされます。
ただ信じ込むものでない、霊感というものとは、霊感者でないので明言出来ませんが、直接結びつかないものです。
そして現臨が臨む時、精神の抽象的思弁からも肉体的固着感からも解放され、この第三の感覚?が発現しますが、そこで精神も肉体も自ずと統合されたようになります。
というより、それらは元々別々のものでないという事が明らかとなります。
精神が有って、肉体が有って、こういうものが有るんじゃない! 元々心身合一的なものが顕れてくる感じです。これこそは我々の大本にあるものではないでしょうか?
どっちつかずで中途半端に思えるものこそが、もっとも無くてはならないものなのです。

この感覚は、何度か書いているように昭和54年の初春の頃で、意識が飛んで行ってしまうような精神的に不安定な状態が静まるにつれて顕著に感じられるようになったのです。自己流の祈りと中国の道院に伝わる坐法が機縁になっているようです。
いずれにしても、自力の修行で開発したものじゃなくて、自ずと心身に芽生えたもので、例えば意識をどっかの中心に集中するなどしなくても、これまた自ずとどっかに集められるようになるのです。
こういう風に言うと”何もしなくても自動的にそうなるのか…”と思われるかも知れません。又私は何か導くものがハタラいているようなことを書いています。
微妙な事ですが、ハッキリとこう言う事は出来ます。これは”祈りと共にある”ものなのです。


コメント
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