人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

一自由人のたわごと

2016-12-15 00:03:34 | 雑感
自分で言うのもおかしいですが、私の考え方とか生き方というものは、誰にもマネ出来ないんじゃないか、と思います。
”こんなヘンな人間のマネなど誰もやりっこない?”…そうですね! 言うべきことは、むしろ…マネしちゃいけない…オカシクなっても知りません!
私はここで”こーゆー事を信じましょう…”とか”こーゆー生き方をしましょう…”なんてことを主張するつもりは毛頭ありません! ここで書いていることはあくまでも一ヘン人の一つのサンプルに過ぎないのです。
強いて言いたいことは、皆さん一人一人(どんなヘン人が隠れているか分かったもんじゃないですが)の自由な感性で、自由にとって頂き、何がしかの共感出来るものが伝われば、と思っているのです。
だって、あなたも私も自由に自分の人生を謳歌しているのですからね…。

いつも読まれている方にはお分かりのように、このブログは神道、仏教、キリスト教…あらゆる宗教、最近のスピ界に関するもの…もう、実にランダムに取り上げています。中には普通、常識の世界では認知されていないような、自動書記による神示とかオカルトと言った分類で呼ばれるものに関したことにも触れています。
一方では、そうした方面を煙たがっている向きも多い、知識層が好んで読んでいるような哲学についても触れています。(ブログのジャンルは一応哲学・思想です)
こういうごった煮状態というのは、全く虚飾の無い、ありのままの私の精神の趣きを伝えているまでなのです。これはもしかして私が感じている以上に見てる人には混乱を招くものなのかも知れませんが、そうなっているんだから仕方が有りません。
モ少し、読む人のことも考えて整合性を持たした方がいいのではないか、とも思いましたが、実際に惹かれてきたもの、啓発を受けたものについてありのままのことを書こう…”という風に思いが至り、とても自由な気持ちになれました。ありのままというのは自由なんです。これは私的には当たり前の話に過ぎないのですが…
私は、何度も触れているようにオカルト的なもの自体を否定したりしません。
その周辺で取り上げられる死後の世界であるとか、前世など見えない世界のことは本来、否定も肯定も出来ないものであるはずです。
科学性というモノザシを以て否定したり、肯定したりするというのも偏っている、と言わざるを得ません。
私は偏ったある種のスピ、オカルト信仰からも、頭ごなしの否定派からも、科学一辺倒信仰からも自由でいたいのです。
逆に言うと、だからこそ自由にそれらに親しむことが出来るのです。
宗教という事でも、勿論特定の信仰は持ち合わせていませんが、宗教そのものも否定も肯定もしません。
時に信仰することと、哲学することは相容れなくなったりしますが、私はどちらからも自由です。
だからこそ、自由にあらゆる宗教にも、哲学にも親しむことが出来るのです。
ただし、カルト、洗脳集団などについては、そこでは自由な感性というものがスポイルされかねないので、お付き合い出来かねます!
狂信というものは、観念の奴隷以外の何物でも有りません。
私はそうした精神の牢獄に入りかけた事が有るので、自由の尊さを身に染みて感じているのです。
自由であるとは、生き生きとした生命がハタライていることです。
どういうものにしろ、凝り固まった精神、定見というものは、人間本来の自由な生命の発露を塞ぎ、フタ閉めしてしまいます。
ただ、かく言う私も、そうした捉われた、押しつけがましい言辞などに反応して、敵愾心を燃やしてしまう、というある意味自由になれないサガも持ち合わせてはいますが…(ある種のトラウマかも知れません)
きっと、そのように捉われたことを表し、見せている事も…自由にそうさせられているのでしょう…
私もそうさせられているように…
私は自(みずか)らは、自由にはなれないのです。
あのすべてを照らし、射抜いている光によって、そう自(おのずか)らなるものに由らしめられているのです…。








コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする