人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

神の国の胞衣

2016-12-18 14:08:43 | スピリチュアル
中国道院では、万有の真宰として至聖先天老祖(仮の名)を奉じているのですが、この老祖の真体とは、一つの”キ”(気にあらず)胞なのだそうです。
道院のお経では「一たび放てば万に弥(み)ち、万を収めて一に帰す」と、先天の一キが化して、陰陽に分かれ、天地の生成流転して行く様を伝え、道を修することにより、元の一に帰ることを伝えているのです。
出口王仁三郎聖師は、「霊界物語・天祥地瑞編72巻」の中で「太虚中ただ一点の(ほち)現れて 至大天界生まれ給へり」と、上記の道院の教説と相通じたような、天地の生成の過程を記していますが、私はキ砲というものにこの”ほち”のようなものを連想してしまいます。
聖師は又、霊界物語48巻では「全ての人間の現界に生まれ来るは天人の胞衣(えな)の如きものである」と述べられていますが、胞衣とは胎児を包む衣、というより、その命の原型、雛形です。
尚も別のところでは「人間は言わば小宇宙で、人体の中に霊界も自然界も存在し、内分は霊界に、外分は自然界に相応する」とも…
これはまさに、西欧神秘学で言い伝えられる「人間はミクロコスモス(小宇宙)であり、マクロコスモス(大宇宙)と照応している」事を言い表しているのです。

私が、普遍調和世界を垣間見た時のことですが(例によって言葉にし難いものですが…)、それは果てしの無い虚空に浮かんでいるという感じのものではありませんでした。
これが実に輪郭の無い胞衣のようなものに包まれている感じなのでした。(そういうものを実際に見てる訳ではありませんが…)
それを強く感じさせたものは、ある音なき音のようなもので伝わってくる胎動というか、律動なのです。
そしてこのものが、生きている…生成してやまないもの、というものを強烈に感じさせるものなのでした。
そして何より、命の親と一体になっている、という事です。
あれは一体、どういう事なのでしょうか? 実感したことを端的に言えば”自分の中も外もすべて愛で溢れている”としか言いようが有りません。
人はよく愛というものの表れについて、”愛に包まれる”と言う表現をしますが、この身心、意識に目の当たりに感じさせるものとして、”包まれる”という表現がピッタリきます。
この衣というか幕、バリアーの如きものについて、もう一つ感じたことは、それが外界の諸々の雑音(私にこの事が起きたのは雑踏の真っただ中でした〉、あるいは自分自身から発する雑念などを完全に遮断していた、という事も付け加えておきます。
精神世界、ことに瞑想を重んじる場などでは、よく”神は内に居ます”という事を言われます。
どうも、内側という事ばかり言っていて、外側の事が蔑ろにされがちのように感じてしまうのですが、これは自分の体の内とか外とか、そういう単純な事を言っている訳じゃありませんで、あくまで受ける感覚のことなのですが、意識が現前にある時、内も外も無い…相即している、というのが、本当ではないでしょうか?(5/21の過去記事「内なるもの、外なるもの」参照)
ただ、自己の外として感じられることは、この客観的現実というものと相接している、とも言えるでしょう。
私がこうしたことを書かされているのは、最近どうも、この内側とか外側とかの境界が、ボヤケ始めているのを感じているからです。
意識が現前に向けられるたびに、ジンジンとあの”お照らし”を感じてきます。
そして…”こうなっていた筈”の客観世界というものにそれが照らされて…ある覆いがはがされると同時に、愛の衣に包まれて来るのを感じます。
神の国、普遍調和世界の実現とは、この客観世界が、その世界に化していく事に他ならないでしょう。
これは人間の意識の変容と結びついているのは言うまでもありません。
一個人の内なる神の目覚めは、このこと自体が神の国の胞衣となる…それは全く一個人に帰してしまうものじゃないのです!
私が垣間見たものは神の国の原型、青写真だったのでしょうか…
「神は人間の内に生まれ、人間は神の内に生まれる」(ベルジャーエフ)







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする