昭和53年、初冬のある日私は多忙を極めていました。
朝から晩遅くまで、ほとんどの時間を宗教的雰囲気のうちに過ごしていました。何しろその一日”世界の三大教”を経めぐっていたのですから…
出口王仁三郎聖師がそう語っていたかは、定かではありませんが、大本の分派、三五(あなない)教(この名の由来については後述)ではハッキリそう述べられています。三大教とは即ちー大本、道院紅卍字会、バハイ教を差します。
三つめのバハイ教はあまり馴染みが無いでしょうが、19世紀イランにイスラム教を母体にして発祥し、世界の諸宗教の同源、融和一致…要するに大本ー人類愛善の精神を中近東方面から発信していた団体なのです。
聖師の霊界物語64巻に、同教、バハウラー(開祖〉、アブドル・バハ(左の後継者)の名が実名で出て来ます。大本が大正時代、積極的に海外の新宗教と交流、提携を図っていたのは良く知られていますが、大正11年、いち早くその端緒となったのが、このバハイとのものなのでした。大本が世界共通語エスペラント語を取り入れたのもバハイの影響です。
その日の午前中新宿のバハイ・センターでしばし談笑しました。(5,6人で、私以外は確か皆女性!)”バハイは東洋と西洋の精神的接点なのです…”と言う誰かの言葉を受けて、私はインドのサンダー・シングについて熱烈に語っていましたが、周囲の反応は全く冷ややかなものでした(誰も知らない…笑)
大本との関係についても触れましたが、現在はほとんど交流は途絶えている、とのことでした。
何故だか、私は信者でもなんでもないのに、大本信徒になったつもりで接しているのが不思議に思えました。
午後は上野にあるその東京本部へ…あまりどういう事を語り合ったか覚えていませんが、教団上層部が何かギクシャクしているらしいことが伺われました。このころはそんなに内紛は表面化してなかったようでしたが、要するにあまり興味ない話が多かったのでしょう。
ここで霊界物語の第6巻を特に”その巻でなければ”、という理由も無く求めましたが、ここでは世界の代表的宗教の万教同根である由来、神代の時代?の信仰団体三大教と五大教が合体して三五教(前記はこれを教団名にしている)となった由来が書かれていたのです。ちなみにこれには三は瑞の霊系、五は厳の霊系を差し、それらの統合、イズノメのミタマの出現…大本(三)と道院(五…聖師はしばしば中国五大教と称していた)との統合一致の様を言い表している、などの解釈が存在します。いずれにしてもこの解釈というものはファジイ(死語〉、重合的なものとならざるを得ません。
夜は銀座の道院世界紅卍字会へ…(前記、五大教とは同会が儒、仏、道、回、基の五教同源を説いていたことにもよるのでしょう)
すでに数人の人が談笑しています。ほとんどが顔馴染みで、自称宇宙考古学者K氏の顔も見えました。それもそのはず、そこが謎の秘教サークル”新しい文明のナンチャラ”のミーティング会場として備えられていたからです。私は同サークルの一大イベント?その年10月の位山神業の折、関西在住の女性霊感者Mさんを通じて同会のありかを知り(Mさんが知ったキッカケとして銀座の一角に光の柱が立っているのが見えた、とか言っていました)、11月初旬奇しくも同会の創立記念の典礼の日に初めて参会したのです。
私はすでに同サークルへの関心が薄れていたのですが、今後のあまり発展性が無さそうな?サークルの有り方、方向性などについて語られていたと思います。ところが…途中から東京道院の番頭ともいうべきN氏の独壇場になってしまいました。
それが道院に関した道の学びについてのエネルギッシュなレクチャーとなるのは、道院の関係者なら皆知っています。(あれは一種の神がかりだろうか?)
つまり、私以外の数人の人には関係の無い話に終始していたのです。私は…このレクチャーにはしばしば押しつけがましさを感じてはいましたが、関係無くはありません。何しろ同会への求修(入会のこと)するかどうか思案していたのですから…
それとも、バハイにしようか…この日の私の心根にあるものは大体察しが付くと思います(笑)
私はこのころには宗教的なものへのパッションは、大部冷めてきてはいたものの宗教を超えた道、各宗教の根源にあるものに直に触れてみたい、という希求はずっと持ち続けていたのです。
エーテル的空気からは離れてきたものの、頭の中はいつカオスに見舞われるかわからない、不安定な状態にありました。これは年明け早々に身をもって知らされました。
意識のどっかで平静さを求めていたのかもしれません。それからすぐ求修の手続きに再び同会を訪れたのでした…。
朝から晩遅くまで、ほとんどの時間を宗教的雰囲気のうちに過ごしていました。何しろその一日”世界の三大教”を経めぐっていたのですから…
出口王仁三郎聖師がそう語っていたかは、定かではありませんが、大本の分派、三五(あなない)教(この名の由来については後述)ではハッキリそう述べられています。三大教とは即ちー大本、道院紅卍字会、バハイ教を差します。
三つめのバハイ教はあまり馴染みが無いでしょうが、19世紀イランにイスラム教を母体にして発祥し、世界の諸宗教の同源、融和一致…要するに大本ー人類愛善の精神を中近東方面から発信していた団体なのです。
聖師の霊界物語64巻に、同教、バハウラー(開祖〉、アブドル・バハ(左の後継者)の名が実名で出て来ます。大本が大正時代、積極的に海外の新宗教と交流、提携を図っていたのは良く知られていますが、大正11年、いち早くその端緒となったのが、このバハイとのものなのでした。大本が世界共通語エスペラント語を取り入れたのもバハイの影響です。
その日の午前中新宿のバハイ・センターでしばし談笑しました。(5,6人で、私以外は確か皆女性!)”バハイは東洋と西洋の精神的接点なのです…”と言う誰かの言葉を受けて、私はインドのサンダー・シングについて熱烈に語っていましたが、周囲の反応は全く冷ややかなものでした(誰も知らない…笑)
大本との関係についても触れましたが、現在はほとんど交流は途絶えている、とのことでした。
何故だか、私は信者でもなんでもないのに、大本信徒になったつもりで接しているのが不思議に思えました。
午後は上野にあるその東京本部へ…あまりどういう事を語り合ったか覚えていませんが、教団上層部が何かギクシャクしているらしいことが伺われました。このころはそんなに内紛は表面化してなかったようでしたが、要するにあまり興味ない話が多かったのでしょう。
ここで霊界物語の第6巻を特に”その巻でなければ”、という理由も無く求めましたが、ここでは世界の代表的宗教の万教同根である由来、神代の時代?の信仰団体三大教と五大教が合体して三五教(前記はこれを教団名にしている)となった由来が書かれていたのです。ちなみにこれには三は瑞の霊系、五は厳の霊系を差し、それらの統合、イズノメのミタマの出現…大本(三)と道院(五…聖師はしばしば中国五大教と称していた)との統合一致の様を言い表している、などの解釈が存在します。いずれにしてもこの解釈というものはファジイ(死語〉、重合的なものとならざるを得ません。
夜は銀座の道院世界紅卍字会へ…(前記、五大教とは同会が儒、仏、道、回、基の五教同源を説いていたことにもよるのでしょう)
すでに数人の人が談笑しています。ほとんどが顔馴染みで、自称宇宙考古学者K氏の顔も見えました。それもそのはず、そこが謎の秘教サークル”新しい文明のナンチャラ”のミーティング会場として備えられていたからです。私は同サークルの一大イベント?その年10月の位山神業の折、関西在住の女性霊感者Mさんを通じて同会のありかを知り(Mさんが知ったキッカケとして銀座の一角に光の柱が立っているのが見えた、とか言っていました)、11月初旬奇しくも同会の創立記念の典礼の日に初めて参会したのです。
私はすでに同サークルへの関心が薄れていたのですが、今後のあまり発展性が無さそうな?サークルの有り方、方向性などについて語られていたと思います。ところが…途中から東京道院の番頭ともいうべきN氏の独壇場になってしまいました。
それが道院に関した道の学びについてのエネルギッシュなレクチャーとなるのは、道院の関係者なら皆知っています。(あれは一種の神がかりだろうか?)
つまり、私以外の数人の人には関係の無い話に終始していたのです。私は…このレクチャーにはしばしば押しつけがましさを感じてはいましたが、関係無くはありません。何しろ同会への求修(入会のこと)するかどうか思案していたのですから…
それとも、バハイにしようか…この日の私の心根にあるものは大体察しが付くと思います(笑)
私はこのころには宗教的なものへのパッションは、大部冷めてきてはいたものの宗教を超えた道、各宗教の根源にあるものに直に触れてみたい、という希求はずっと持ち続けていたのです。
エーテル的空気からは離れてきたものの、頭の中はいつカオスに見舞われるかわからない、不安定な状態にありました。これは年明け早々に身をもって知らされました。
意識のどっかで平静さを求めていたのかもしれません。それからすぐ求修の手続きに再び同会を訪れたのでした…。