宗教、精神世界では見えない世界について言及されます。精神、心というもの自体見えないものですね。
霊界、死後の世界、天国や地獄なども、見えない世界として扱われています。
しかし、そういう世界の説明にはしばしば”例えば霊界にはこんな黄金色の宮殿が有り、霊人たちは何色の霊衣をまとい…”といった風に、さも見てきた様に語られたりします。”前世はOOだった…”という言辞でもそうですね。
これはあくまでも私個人の観方なのですが、こういう世界というのは、見える世界の延長のように感じているのです。何故かと言えば、正しく見てきた様に語ることが出来るから…想像の世界で思い描くことが出来るから…その話を聞いて、”ああ、そうなんだあ”と納得できるから…
私は霊能者でないので、詳しくは分かりませんが、霊視にせよ、透視にせよ、それは見ていることに変わりがないのではありませんか?
つまりこのように語られる見えない世界とは”見える見えない世界”(ヘンな造語)なのです。
これが宗教、精神世界には強固な信仰を生み出し、先入観念、固定観念に捉われてしまう事態に陥りがちになるのです。
この現実世界が何時かアセンションするとか、見える地上天国に眩惑されてしまうのです。
私はしばしば”普遍的な世界を垣間見た…”などとうかつなことを言ったりしますが、勿論ヴィジョナリーにそんな世界を見た訳ではありません。
これは、遮るもの、隔てるものが無い、という意識の奥で感じたある実感を言い表しているのです。
それは、しかしただ、どこまでも、限りなくワンネス、一なるものがある、という事とは違って、自己以外の無数の他己的なものも認められるのです。それでいて自と他は離れていません。
どうして遮るもの、隔てるものが無いと感じられるのか、と言ったら、そうであるからこそ、だから…なのです! 一なるものしか無かったら、そういう実感は生まれないハズです。
同様に愛そのものというのもそこから感じられるのです。
何にせよ、何度も言うように、こういう事を言葉で言い表すことはとても困難です。見てきた様に語ることが出来ない、私的にはこれがホントの見えない世界という感じなのです。
こういう事は、私のオツムの限界もあって大概にしなければならないのですが、別の観点で無暗に語るべきでない、とも感じています。
というのも私以外の人の知ったこっちゃないことでしょうから…”ここに愛が有るんですよ!魂の平安が有るんですよ!…自分が垣間見たものを信じて下さーい”などと触れ回ったところで、余計なお世話にしかならないでしょう…
それでも、私はどうしても、こうしても言いたい!…あらゆる人が愛を平安を求めて欲しい…それが一瞥体験だろうが、エンライトメントだろうが、無かろうが、終わりなき日常のホンの束の間の一コマ(ある、ある…ホラ、そこに)だろうが…(というか、そうしたものを求めていない人など居ないハズ)
それらは他からの借り物などで充足出来るものでしょうか?
私が言いたいのは、それらを求め、感じ、味わうのはあなた自身を置いて他に居ない、という事なのです。(ただ他人の言葉を聞いているうち、あなた自身の内から共感、共鳴する何かが呼び覚まされるということはあり得ることですが)、”見える見えない世界”に蔓延しているデキアイの信仰などに安易に迎合しても無意味だという事です。
自分自身で直接目の当たりにする以前に、予め信じられるべきものとして設えた定見を背負いこむことというのは、実に”あなた自身の現実を見えなくさせてしまう”ものです!(別にそうしたものに触れていて、トラワレの身にならなければいいのですが…)
思い込みから自由でなければ、あなた自身の愛も平安も”見えてきません!”
何処までも自分の魂の目で”見なければならない”ものなのです!
こうあってこそ、我々の現実に”見えない神の国も見えてくる”ことでしょう…。(話見えますか?)
出口王仁三郎聖師が映し出していた、反キリスト的見える地上天国の型も、弾圧の嵐の中に消えて行きました。
それらは見えるものを通して、見えないものを洞察するために備えられ、演じられたものだったのでしょう。
反キリストはキリストの先駆け…
キリストの神の国は我々のただなかにある…
霊界、死後の世界、天国や地獄なども、見えない世界として扱われています。
しかし、そういう世界の説明にはしばしば”例えば霊界にはこんな黄金色の宮殿が有り、霊人たちは何色の霊衣をまとい…”といった風に、さも見てきた様に語られたりします。”前世はOOだった…”という言辞でもそうですね。
これはあくまでも私個人の観方なのですが、こういう世界というのは、見える世界の延長のように感じているのです。何故かと言えば、正しく見てきた様に語ることが出来るから…想像の世界で思い描くことが出来るから…その話を聞いて、”ああ、そうなんだあ”と納得できるから…
私は霊能者でないので、詳しくは分かりませんが、霊視にせよ、透視にせよ、それは見ていることに変わりがないのではありませんか?
つまりこのように語られる見えない世界とは”見える見えない世界”(ヘンな造語)なのです。
これが宗教、精神世界には強固な信仰を生み出し、先入観念、固定観念に捉われてしまう事態に陥りがちになるのです。
この現実世界が何時かアセンションするとか、見える地上天国に眩惑されてしまうのです。
私はしばしば”普遍的な世界を垣間見た…”などとうかつなことを言ったりしますが、勿論ヴィジョナリーにそんな世界を見た訳ではありません。
これは、遮るもの、隔てるものが無い、という意識の奥で感じたある実感を言い表しているのです。
それは、しかしただ、どこまでも、限りなくワンネス、一なるものがある、という事とは違って、自己以外の無数の他己的なものも認められるのです。それでいて自と他は離れていません。
どうして遮るもの、隔てるものが無いと感じられるのか、と言ったら、そうであるからこそ、だから…なのです! 一なるものしか無かったら、そういう実感は生まれないハズです。
同様に愛そのものというのもそこから感じられるのです。
何にせよ、何度も言うように、こういう事を言葉で言い表すことはとても困難です。見てきた様に語ることが出来ない、私的にはこれがホントの見えない世界という感じなのです。
こういう事は、私のオツムの限界もあって大概にしなければならないのですが、別の観点で無暗に語るべきでない、とも感じています。
というのも私以外の人の知ったこっちゃないことでしょうから…”ここに愛が有るんですよ!魂の平安が有るんですよ!…自分が垣間見たものを信じて下さーい”などと触れ回ったところで、余計なお世話にしかならないでしょう…
それでも、私はどうしても、こうしても言いたい!…あらゆる人が愛を平安を求めて欲しい…それが一瞥体験だろうが、エンライトメントだろうが、無かろうが、終わりなき日常のホンの束の間の一コマ(ある、ある…ホラ、そこに)だろうが…(というか、そうしたものを求めていない人など居ないハズ)
それらは他からの借り物などで充足出来るものでしょうか?
私が言いたいのは、それらを求め、感じ、味わうのはあなた自身を置いて他に居ない、という事なのです。(ただ他人の言葉を聞いているうち、あなた自身の内から共感、共鳴する何かが呼び覚まされるということはあり得ることですが)、”見える見えない世界”に蔓延しているデキアイの信仰などに安易に迎合しても無意味だという事です。
自分自身で直接目の当たりにする以前に、予め信じられるべきものとして設えた定見を背負いこむことというのは、実に”あなた自身の現実を見えなくさせてしまう”ものです!(別にそうしたものに触れていて、トラワレの身にならなければいいのですが…)
思い込みから自由でなければ、あなた自身の愛も平安も”見えてきません!”
何処までも自分の魂の目で”見なければならない”ものなのです!
こうあってこそ、我々の現実に”見えない神の国も見えてくる”ことでしょう…。(話見えますか?)
出口王仁三郎聖師が映し出していた、反キリスト的見える地上天国の型も、弾圧の嵐の中に消えて行きました。
それらは見えるものを通して、見えないものを洞察するために備えられ、演じられたものだったのでしょう。
反キリストはキリストの先駆け…
キリストの神の国は我々のただなかにある…