人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

そのもの、それ自体

2016-12-17 12:30:22 | 哲学・思想
私がどうにも言い表すのに窮してしまうのに、”そのもの”とか〝それ自体”としか表現出来ないものが有ります。
こればっかりは絶対に表現のしようのないものなんだからしょうがないのです。
これはしばしばと言い表わして、一応分かったつもりのものにされてきました。
帰着も決着も永遠につかないものにも関わらず…
その事が又、数々のそれぞれの色あい、思惑などで修飾され、様々な決めつけた定義などが生まれ、ご存じのように収拾のつかない混乱の種ともなっているのです。
これは取りも直さず、それ自体なる、そのものは有識によって捉えられる術が無い、ということを言い表しています。
そして安易に捉えようとすることで、かえって自らを何らかのトラワレの身に置いてしまう事になるのもよく見られることです。これは、絶対的なものを有識に持ち込むことで、相対地獄に落ちてしまう、という事を物語っています。
もっともそのものであるものは、もっともそうあるべきでないものになり得るのです!
そのものというものは、それに触れた時の実感を、ある形容で言い表すことしか出来ません。
この時にOO自体という表現が許されるかと思います。
例えば、”そのものは愛それ自体である”とか…
人は”愛する”とか、”愛される”とかその対象との関係を主体と客体にすることで愛というものを表現します。
だがここで言う、愛それ自体というものは全く、そういうものではありません!
愛する私も、愛される対象のあなたも無い…愛そのものがあるのです!だからそれ自体としか言い得ないのです。
では、そのものというものは、愛なのか? いや、そうじゃない、幸福、平安、智、真理…形容される言葉には際限がありません。
今掲げた言葉には、”こうすれば幸福になれる、平安に導かれる、真理に到達出来る…”と(使い古された表現ですが)ここに無い、ことを前提に語られるものですが、それらは全て現前しているのです。
しかも愛、幸福、真理というものは別個にあるものでもありません。そのものはそれらのどれでも無いが、ことごとくそのものであるものです。
又、人は”幸福とは?”とか、その示す意味付けをしようとするものです。
だが、それ自体への意味づけは意味をなしません!
とは言え、人間のサガというものはどこまでも意味とか意義とかを追及したくなるものですね。
しかし、よしんば例えば人生の意味、意義、目的が分かったところで、自己の意味が、神の意味が分かったところで、物心ついた時以来の不十全感は何一つ解消されることは無いでしょう。
(何かの教えを受け容れ、信じたとしても、一部の人たちの間でそうだとされている真理に迎合して、一応の手打ちにした、というだけのことじゃないですか?…)
こういう事というのはホントは、覚醒体験などのことを持ち出さなくとも誰でも知っていることじゃありませんか?(何もしなくとも生かされているだけで、幸福でいられる人は知っているはずです)
隠さなくっても分かっています!
あなたの物心ついてからの自己や人生や世界に取り巻いている、モヤモヤした不十全感というものが、そのもののことを知らせているのではないですか?何かを目差し、求め、探そうとしても、決して目の当たりには出来ない、物それ自体には至り得ない…
この事を受け容れること、認めることこの事自体が現前を受け容れる、という事に他なりません。そこから通気口が開かれます。
不十全感とは我々自身から来るばかりでなく、そのものが解き放たれようとする促しなのかも知れません。
自己のことも、人生のことも、世界のことも、そのもの…それ自体の御顕れが、それ自体の成就を成すことでしょう…。
我々はただ祈りを以て、そのものに捉えられ、その光に照らされ、射抜かれるばかりです…。








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