人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

形なき命と内なるもの

2022-04-01 10:52:09 | 祈りと瞑想
平成3年の今頃、私はある重大な決心のもと、夜大阪ビジネス街のホテルの一室を訪れたのでした。
そこで待っていた人物の姿を見て、一瞬ある不安が過りました。インドのサリーをまとっているではないか!...“私は絶対あんな格好なんかしないぞ!...ギータの一節を毎日唱えたりもするもんか!”
この人は、れっきとした日本人、瞑想指導者の金井系一郎先生でした。
私は、その頃外来の宗教、精神的グループと関わっても、容易くその国の文化に、迎合し、カブレてしまうあり方に猛烈な反感を抱いていたのです。
それは、それまでの数年間、インドネシア伝来の“スブド”に関わってきたことで散々見て来たことなのでした。
このことに関してもっと重要なことは、その指導者に迎合、追従、盲従してしまうことにあるのです。
これでは、スブドのラティハンと呼ばれる霊的修練によって、自分自身の内なる霊性が開かれる、“あなたはますますあなた自身になってゆく”、という唱い文句は宙に浮いてしまうではないか?!
私は、とにかくスブドに蔓延していた、そういう纏わりから自由になりたくて、年度末を機にそこをやめる決心をしたのでした。(本当はもっと深刻な理由があったのですが...)
で、この先生が提唱されているものが、元波動瞑想(今は金井メソッドと呼んでいるらしい)というもので、私がその存在を知った本によると、原理はラティハンと相通ずるものがあり、当然というか、その目指すところも同じものを感じ取っていたのです。
原理を大まかに、玉城康四郎先生流に言えば、形なき命の伝授~既にそれを受けている先人を通じて、霊なる命が交換され、それにより内なる霊性の目覚めに導くことに他なりません。
そう、私は自由になった!...晴れて霊なる命に与ろうとしていたのですが...
私は既に自覚していたのです!...あのある主のバイブレーション感覚から自由になっていなかったのを!...これは喜ぶべきか、憂うべきか?...んなもん、分かりきったことではないか!
私は、あの疑似宗教モドキの思念世界から自由になりたかっただけなのです。
あの感覚は私の内なるものから来ている、という自覚は持っていて、そこをやめたとしても、それを失ってしまうようには感じていなかったのです。もし、それが失ってしまうものならば、多分やめてないでしょう。
そして、新たにその形なき命の伝授に臨んで...《その前に私はどうしても確認したいことがあり、「私もインド人のマネしなきゃなりませんか?」と訊いたら、先生は苦笑して「やりたくなければわ、やらなくていい!」と、まあ、そうでしょう》
新たに金井先生から伝わるバイブレーションが感覚されたのは確かなことでしたが、元々芽生えていたそれも感じられる...何とも微妙なものとならざるを得ませんでした。
自分でコントロールすればいい...って、出来ませんよ!
こちらの思い、力を超えたものなのですから...
形なき命の伝授。考えてみれば、私がこれまで関わって来たいくつかの宗教的、精神的グループではほとんどそういうものを伝えていた、と言っても過言ではありません。
と言うより、すべてのそうした道について当てはまると言えるでしょう。
たとえ表層において、集団的思念によって、その本来性が覆われてしまうことがあったとしても、形なき命そのものなのは不変、普遍的なものであることが知られます。
何が本質的なもので、何がそうでないか...思いを超えた命そのものと、思いに絡められるものとの識別がどうしても必要になるでしょう。
所が変われば、それも変わるというのは、本来はおかしいことです。
内なるものに意識を向ければ...そこには本来一つのものしかない...
形なき命は、実存的なものと切り離すことが出来ないのですから...
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする