“のしてんてん”さんという、ご自分の世界観を文章は勿論、絵画に表すなどされている方のブログは、私もとても共感を覚えているのですが、最近の記事で悟りについて言及されていました。
それによると、悟りには至福に与ることがあるが、それにとらわれ、同一視したりすると、方向を見誤る、という旨のことを述べられておりました。
このことに関して、まずその渦中にあった時には...私の経験では、前回も触れたように、至福にとらわれる(捉えられてしまうのです!)ことも、そこから抜け出すことも、そこから別の次元を目指すことも不可能なのです!
すべての為そうという思い、意志、力を失ってしまうのだから...
問題は、それらの機能が戻って、再び現世での生活を営むことになってからの話になるでしょう。
これは、私にも強くあったと言わねばなりません。それが元の黙阿弥になってしまって...“あの至福にもう一度与りたい!”
有り体に言って、”悟りだ、真理だ、霊的進歩だののことはどうでもいい!...ただ、あの至福がああ...”というものだったのです!
それほど幸福というものと結びつけられていたのです。このように、現実に離れてしまったものを、与らなければ得られないものを追い求めることは、やはり執着ということになるのでしょう。
もっとも、これは悟りや霊的進歩に置き換えても同じことでしょうが...思念を強めることはそれにつながるのです。
このように、幸福を追い求めることから、どういうイメージを持たれるでしょうか?
至福体験に酔いしれる...自分だけに与り、自分だけ感じている幸福...そこには他者とそれを分かち合うという道は開かれないのか?...いつまでも、ずっとそんな境地に留まり続けている...利己的な在り方...
しかし、渦中にあった時、目の当たりにしたものは、自分だけの幸福など存在しない、ということだったのです。
その至福をもたらしているものは、あらゆる他とのつながり、普遍的なるものとの一体感と言ってもよかったのです。
そして、ずっと同じところに留まっているものなど何一つありません。絶えざる創造(それには為そうとする私は何も関与していないのは言うまでもありません)...何もかもが劇的!...それでいて先とは違った意味の恒常的な静寂、平安...
要するに、そのすべての面で至福が感じられたのです。
精神的道には、私の与りしれない領域というものがあるかもしれませんが、少なくとも私には至福と切り離された、精神的目覚めというのは考えられません。
二元的現実世界では、別々のもののように考えられ、感じられるものでも、そこでは不可離のように感じられるのです。
しかし...よ~く考え、感じてみて下さい!...例えば、自分の幸福のことより、他者の、愛する人のために、時には自己犠牲とも思えることにも赴く時の心境のことを!
そう赴かせるものは、ある種の幸福感ではないでしょうか?
そうでなきゃ、私などアホらしくてやってられませんよ!
表層では幸福だとは思えない、感じない、だけどもっと奥の方の現実では...意識が自然と動いていたりするのです!
結局、そうなっちゃう...ということはそれにゆだぬるしかない!
人生の表側だろうと、裏側だろうと幸福というものは、思いを超えたところからもたらされるのでしょう。
そして、それは与えられるものだ、ということ...元々与えられているのかも分かりません。
表層で捉えようと、とらわれているから分からないのでしょう。
だから...断念したら、何かが開ける...かもしれない...。
それによると、悟りには至福に与ることがあるが、それにとらわれ、同一視したりすると、方向を見誤る、という旨のことを述べられておりました。
このことに関して、まずその渦中にあった時には...私の経験では、前回も触れたように、至福にとらわれる(捉えられてしまうのです!)ことも、そこから抜け出すことも、そこから別の次元を目指すことも不可能なのです!
すべての為そうという思い、意志、力を失ってしまうのだから...
問題は、それらの機能が戻って、再び現世での生活を営むことになってからの話になるでしょう。
これは、私にも強くあったと言わねばなりません。それが元の黙阿弥になってしまって...“あの至福にもう一度与りたい!”
有り体に言って、”悟りだ、真理だ、霊的進歩だののことはどうでもいい!...ただ、あの至福がああ...”というものだったのです!
それほど幸福というものと結びつけられていたのです。このように、現実に離れてしまったものを、与らなければ得られないものを追い求めることは、やはり執着ということになるのでしょう。
もっとも、これは悟りや霊的進歩に置き換えても同じことでしょうが...思念を強めることはそれにつながるのです。
このように、幸福を追い求めることから、どういうイメージを持たれるでしょうか?
至福体験に酔いしれる...自分だけに与り、自分だけ感じている幸福...そこには他者とそれを分かち合うという道は開かれないのか?...いつまでも、ずっとそんな境地に留まり続けている...利己的な在り方...
しかし、渦中にあった時、目の当たりにしたものは、自分だけの幸福など存在しない、ということだったのです。
その至福をもたらしているものは、あらゆる他とのつながり、普遍的なるものとの一体感と言ってもよかったのです。
そして、ずっと同じところに留まっているものなど何一つありません。絶えざる創造(それには為そうとする私は何も関与していないのは言うまでもありません)...何もかもが劇的!...それでいて先とは違った意味の恒常的な静寂、平安...
要するに、そのすべての面で至福が感じられたのです。
精神的道には、私の与りしれない領域というものがあるかもしれませんが、少なくとも私には至福と切り離された、精神的目覚めというのは考えられません。
二元的現実世界では、別々のもののように考えられ、感じられるものでも、そこでは不可離のように感じられるのです。
しかし...よ~く考え、感じてみて下さい!...例えば、自分の幸福のことより、他者の、愛する人のために、時には自己犠牲とも思えることにも赴く時の心境のことを!
そう赴かせるものは、ある種の幸福感ではないでしょうか?
そうでなきゃ、私などアホらしくてやってられませんよ!
表層では幸福だとは思えない、感じない、だけどもっと奥の方の現実では...意識が自然と動いていたりするのです!
結局、そうなっちゃう...ということはそれにゆだぬるしかない!
人生の表側だろうと、裏側だろうと幸福というものは、思いを超えたところからもたらされるのでしょう。
そして、それは与えられるものだ、ということ...元々与えられているのかも分かりません。
表層で捉えようと、とらわれているから分からないのでしょう。
だから...断念したら、何かが開ける...かもしれない...。