人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

根付くこと

2022-04-07 11:41:07 | 意識、照明
私は、過去に俗に言う宗教遍歴のようなことをしてきました。いや…あるグループに関係しながら別のところにも関わるというケースの方が多かったでしょう。
いずれにしても、その関わり方は実にドライだったのは確かなことです。
これは私の場合のことを言っているのであり、無闇にマネして、余計な混乱などしないで下さいね。(ちなみに私の場合、その又過去に一つの宗団に関わることで苦汁をなめ、不信を抱いたことがあったということを付け加えて置きます)
しかし、もしその遍歴の過程で、何か確信に触れるような出会いの予感を感じたとしたら...そのことをもっと意識してみたらいいでしょう。
私と違って(?)世の中には、ただ色々異なった宗団を経巡ることを趣味のようにしている人も居るものです。
もしかして、その出会いが人生において決定的なものとなるかもしれないのに、それも数多ある教えの一つとしてしか見ないとしたら、大きな損失になるかもしれません。
心の奥で、意識が自ずと動いているかもしれないのに、表層の思いの方が強くて気が付かないことが多いのです。
意識的になるということが如何に人生を左右することでしょうか?!
もし、これが本当に人生で決定的な出会いに直面することだったら...
そう、初めて“人生の裏側”に足を踏み入れ、最愛なる御方と出会うようなことです。
私の場合、その可能性はありましたが、実際にそういう関わりの中で起きたことでないので分かりません。
もしそうなったら、その宗団が数多のものの中の一つでは無くなって、特別な意味を持ったものとなるか、いやその人生の決定的出会いが、関わる宗団のあり方と相容れないものとなって、否定されてしまうかもしれません。
後者のケースでしたら、多分もう分かりきった選択になるでしょうが、決定的出会いのことがあまり意識に根付いていなければ、どうなるかは分かりません。
その出会いは、思いを超えた意識の領域のものだとしても、意識に根付いていなければ、日常の意識状態に戻って、再び思考マインドでそれを覆ってしまうことにもなりかねません。
だから、意識的になる必要があるのです。これは言うまでもなく、意識を強めることじゃないですよ。...考えるのではなく、感じるのです。
あの御方の臨在を!...何がどうなった、こうなったとか神秘体験だとかのことでなく、その愛、平安のご自体に自然に意識が向けられるでしょう。
そして、意識に根付いたならば、もうそれから離れるのは不可能です。
又、離れようとするのは、愚かの極み、生まれて来ること自体が間違っている、と言うべきものです!あまりにも私自身過ぎることなのに...このもの無くして私はどこにあろうか!
意識にあることこそが、決定的、絶対的なことなのです。
如何なる宗団に関わろうと、関わるまいとそれは相対的な意味でしかありません。
私がどこにあろうと、絶対なるものと共にある...
そうですよ、私は絶対的なものに到達したのです。それを掴んだのです!、って、これか又愚かの極みなんだ!
そういうものは、捉えられて初めてつながれるもの...
本当はこちらから、根付かせようとしなくても、自然と根付くようなことです。
あちらから根付かせようという、意識の動きにゆだねるのみでしょう...。
コメント
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