人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

思いはそのままで...

2022-04-18 10:08:31 | 求道、探究
”人は救うも、救われるもない、元々救われているんです...元々悟っているんです...この世の不調和に映ることは、自分の不調和な思いの反映なのだから、その思いにとらわれないことです。...“

いつも、独善的な宗我意識や陰謀論などのオカルトの言説にとらわれている人間から、その元ネタに真実があるとしても、無批判にこういう悟り説法のマネなど聞かされても、全く何も心に響くものなど感じられず、白々しい思いをさせられるばかりです。
そうでなくても、こういう根源論に偏した言葉に接していつも感じることは、言う方も聞かされる方も、本当にそのことを心から感じているのか?、ということなのです。
そうでないのに、高遠そうな、悟ったような言葉だからといって、無理にそれに信従しようとしても、それは自己の本当の真実に却って覆いをかけてしまうことになるでしょう。
それはいつも言うように、自分の思いだけで処して行こうとすることだからです。心から感じていないまま思いを巡らせ、強めたりするのは、本心を誤魔化し、迷いを作ってしまうことになるのです。
だから...思えなければ、思えなくていい...信じられなければ、信じなくていいのです!
思おうと、信じようと自分の実存は、何一つ変わったりしません。
神に思いを向けていたらいいのです。諸々の思いはそのままで...
神的なもの、神に在るということが抜け落ちるから、浮いた思いばかりが堂々巡りしてしまうのです。それが抜けると、思いはそのままで、という言葉が浮いてしまいます。
春の陽光に照らし出されるように、神的な光に映し出されるまんまを受け入れるだけです。
神に思いを向ける...(ここでは思いの奥の意識の次元のことは言ってません)これは祈ることと言ってもいいですが、そのこと自体が諸々の思いから離れることなのです。
言っている私でも、ウソだと思ったりもして、それでもそうすると、そうなってしまうのだから不思議としか言いようがありません!
こっちはアレコレ思い煩っていて、そのまま神を思ったりしてたら、いつの間にか化してしまう、ってことはやはりあっちが思いを超えたもので、それがこっちに働きかけて来るということなのでしょう。
思いというものは、神にあって消えるものだ、ということです!
思いが超えられていなければ、そこにあなたや私の真実などありません!
観念に浮いたようなお話などもう沢山ではないか!

考える人間は、どこまでも考える人間に過ぎません。
自分は、神になったと考えたりするのは、過ぎた人間で、神にもなれないし、おそらく考える人間に戻ることも出来ないでしょう。
でも、こういう欺瞞を散々見せられて、その向こうから、“地上に降りた神”がものを言う姿が次々現れるのを見せられているようでもあります。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする