人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

人格ー神の像

2022-04-14 11:58:14 | 哲学・思想
「禅は畢竟するに人格にお目にかかることである。そしてこの人格はいわゆる識神であってはならぬ、...分別論理の知性であってはならぬ。それよりももっと深いところに潜在している“本来の人”、“主人公”である」(鈴木大拙「禅への道」/春秋社刊)
「人間の人格の像は人間の像にとどまらず、それは又神の像である」(ベルジャーエフ「奴隷と自由」/新教出版社刊)

仏教、特に禅関係の人は、あまり人格ということに言及しないものと思っていたのですが、鈴木大拙師は、西欧の思想家と多く接しておられるためか、このような注目すべき言葉を残していたのでした。
多分、両者は出会ったことは無いと思われますが、ベルジャーエフの人格論とも通うものを感じます。
ここで語られていることは、通常考えられているような人格のことでないのは言うまでもありません。
それは、社会生活に適応すべく、自分の“本来性“とは関係なく後天的に形成される、それのことではありません。否、正にその本来性と結びついたものと言えるでしょう。
又、人格神という、神が人格を有しているかどうかなど、考えても分からない抽象論に終始するものでもありません。
第三者的に、一般論のように語られる人格のことなど何になるでしょうか?!
思考の限界内の私からは理解することが出来ない...どこまでも、私自身の実存の光に照らされねばならないのです!
これは、もうベルジャーエフの言葉の通り、自己を超えるもの、超越者を予感せずにおれません。
人格、実存、そして神のことも...実体論からは明らかにされることは無いでしょう。
実体という偶像は、直に実存の光、超越的光が差し込むことを遮えぎるものだから...
神に人格があるのか、どうかは分かりません。又、神は全体であり、私はそこに溶け行ってしまうのでしょうか?
全体というよりも、普遍的なものと切り離されないものを感じたことはあります。
しかし、それは全体的なものに解消されることの無い、言うなれば、ある像として感じられたのです。
その像はもとより見えないものなのですが...それは、普遍的なものと個的なものが重なり合っていたのでした。
しばしば、後天的性格といったものと混同されてしまう、本来的個性というものはここに淵源があるのでしょう。
”私はここから来た!“
私が神、神的なものについて言及する時、多くの場合、この像を借りていることに気が付きます。
その場合、思念に囚われて、偶像にしてはならないのです。
私は神である、などと容易く言えるものじゃないのです!
通常思われている人格というものは、てんでバラバラでコロコロ変わるものですが、これこそが常に立ち帰るべき、本来の人格...思われた私以上の私なのです。
人格を巡って、これまでことに西欧、東洋の伝統的考え方の相違から、どれだけ的を外れた本質的でない論議が繰り広げられてきたでしょうか?
これは取りも直さず、人間というものが分かっていない、ということを物語っているのでしょう...。
コメント
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