人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

あなた自身の神の国

2015-09-20 12:53:45 | 哲学・思想
至(私)聖所というのは、他の呼称が分からないので、私が勝手に自己満足で、そう呼んでいるものに過ぎないのです。
モナドと呼ばれている哲学用語が、この概念に幾分近いものだと思います。
全体と分かれた単子でありながら、一個の全体であるというものらしいです。
神智学では神の分神霊と解釈され、神道でいう神の分け御霊と通じるものです。
ただこのような説明をもとにして、あるイメージから”ハハーン、そういう事なの”と納得されてしまっても困ります。
宗教や精神世界の手軽な教えを提供しようなどとは毛頭思っていませんので…。そしてこれもまた一つの観方に過ぎないのです…。

私は、それを何処までも無限に広がるあのワンネスの世界というか、一なる普遍調和世界と区別して表現しています。
従来の道では、こうした個を超えた領域についての言説は、表現は様々ですが、多くの類例が有ります。
だが、このもう一つの領域については、私の知る限りあまり見られないのはどういう事なのか?と思ってしまいます。私の場合が異例なのでしょうか?… 
さて、区別と言ってもあくまで便宜上のもので、本当は分かち難く結ばれ、重なり合っているものです。
同じものを違う視点で観ていると言ってもいいかも知れません。
まず、前者においては個人としての私は居ない!と感じられるのに対し、こっちでは”私しか居ない!”となります。
この世界は、宇宙は私なのです!
つまりそこでは、個的なものを強く感じさせるのです。
ただし、通常思われているような他から分離し、諸々の他の中の一つ、全体の一部のように在るのではありません。
何かの従属物でなく、それ自体が独立した全なるもの、全き主体として在るのです。
前者では、普遍性、果てしない横のつながりが感じられるのに対し、こっちでは永遠性、どこまでも生き通しの自己です。
大いなる意志のようなものは認められますが、起きる事が起きるように自分と関係無くあるのでなく、そこでは自由意志としてあります。
そこでは何をしようと、どう生きようと自由なのです。
ただそれも通常理解されているものとは全く違います。
(これらの違いは全て思考、思念、意念の限界内とそれを超えた領域との違いと言ってもいいです。)
そしてこの二つの領域には密接な連携、相即関係が有ります。
神の国を目の当たりにしたようなあの普遍性、調和性を強く認識させているのは何か? それは私が個的なものと結びついているからです!
微妙な分離感がそれをもたらしているのです。
強烈な独一無二の永遠の個なるものを、そのようにたらしめているのは…自己が普遍調和に根ざしているからです。
(こういう事は全く相反することなので、現実世界に合わせて説明するのはとても困難です。)
そしてこの個的な王国で成就されたものは、普遍世界にも反映されるのです。
大天国と小天国は一つのものなのです。

今日のようにあらゆることが行き詰って来ているこの現実では、神の国、地上天国の実現を夢見る人も少なくないですね。
”この世界をどうにかしなければならない…平和の社会を実現しなければ…又は何かの精神的な教えを広めねば…”と躍起になる人も少なくありません。
そして、平和社会、魂の平安をもたらすとされる指導者、団体に群がり続ける…
でも、あなた自身の平和、平安はどうなのか? あなたはいつまでも、指導者に従わなければならないのでしょうか?
あなたにはあなただけの神の国が有るのではありませんか?
あなたはあなたにしかなれない…あなたが幸福なら、せ界も幸福なのです…。












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