人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

全託か進化か

2015-05-08 14:22:08 | 秘教、その他団体
どんな道でもそうですが、そこに関わっている人の意識状態というものが、その場の有り様に
密接に影響するものです。
ことにそれが我々の魂であるとか、本質的な部分に関わるものであれば、決して蔑ろには出来
ないですね。その指導理念というものは実に重要なものだと思います…。
S会という瞑想の裏側ともいうべき霊的修練を伝えている団体が有ります。
その説くところは、”神への全託により、その恩寵によって魂が開かれ、一人一人神につながる道があたえられる”というもので、どこか聖霊を強調するキリスト教と通ずるものが有ります。
私は人生の裏側を垣間見た後、それが封印されて元の木阿弥になって喘いで?いた頃、この
”神の恩寵に預かれる”というところと、宗教宗派を超えた包容性を標榜しているところに惹
かれて入ったことが有ります。
ところが一年くらい経過したころでしょうか、私はこの会は何から何まで、”言われているこ
とに内実性が全くなく、宙に浮いてしまっている”という感じを受けるようになりました。
まずその会は”宗教でなく、教えも理論も無い”と言います。ところが日本人でありながら、創始者B師がそうだったので、それにあやかってか?割礼までして回教徒になってしまう人が相次ぎました。
又、超宗教を標榜していたものの、私にはそのセクト主義的なものが鼻について仕方ありませ
ん。B師の教えが権威づけられていたように見受けられたのです。
こういう土壌にあって、さらに師が説いていた霊的進化論が会の中に浸透していることに気が
付きました。これはおそらく師がイスラム神秘主義から借りたものだと思われますが、”物質的段階から植物、動物…といった諸々の段階を経て神的段階に至る”という、永久に真我に目覚めることなど出来そうに無い、考えるだけでめまいがしそうなオカルト進化論です。
これで”我々は神秘主義でもオカルトでも無い”と言うのだから恐れ入ります。
私がどうしても違和感というか嫌悪感を覚えたのは、この教説モドキものが浸透してしまったら、全託という意味は全く宙に浮き、その道は閉ざされるだろう、ということなのでした。
これは普通に考えたら分かることです。何もかも神に委ねようとする人は、より高い段階への進化などに現を抜かしている筈も無く、そのような魂の進化論に捉われている向きは、全託ということなど、これっぽちも意識に無いことでしょう。
全託ということは”全て”ということであり、そうでなければ…オカルトモドキのことに頭をたくましくしているか、どっちかしか無い筈なのです。
何が危険かと言って、こういうどっちつかずの中途半端な意識状態に置かれることが一番危ないのです!
こういう時は、私が普段つぶやいていることと、手のひらを返したような事を言いたくなります。
”魂が進化するのは誰ですか?””何が進化をもたらすのですか?”
”あなたが本当に全託と言う意味を理解した時、あなたは全く無力で、何一つ出来ない事を思い知るだろう…”
そして当然の如く?会の中に混乱した人たちも現れ始めました。
そこでも”混乱しているのは誰ですか?”あなたの中に混乱することも、あてどの無い魂の進化も退化も無い、変わらず生き続けているものにこそ
意識を向けるべきなのです。それは勿論あなたの力によってでは無く、神、真我の恩寵によってです。…
というようなことは今だから書けるのですが…あの時はフタが閉まったままで、エゴの密閉空間で喘いでいたのでした…。





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瞑想の裏側

2015-05-07 15:47:51 | 祈りと瞑想
瞑想については私は多く語ることが出来ません。
もし、瞑想なるものが例えば何かに意識を集中することだったり、呼吸をコントロールするこ
とだったり、イメージで誘導されるものだったり…何らかの”やり方”を伴うものであるなら
ば、私にはほとんど縁も関わりも無かったからです。
それでも十数年前、瞑想指導者K先生の主催するリトリートにはよく行ってました。
ある時の集まりでは、あらゆる瞑想法のオンパレードという趣で、生まれて初めて長時間瞑想
に取り組みました。そのネライは確か”自分にふさわしい瞑想法を見つける”ことに有ったと
思います。それこそナーダ、イメージ、ヤントラ、マントラ…瞑想者ならおなじみのものを次
々、一生懸命”やり方”を覚えてやってみたものの…どれもこれも私には難行苦行でした…
僅かに合いそうだったのはマントラ(オームとか…)ぐらいでしたが、何が大変て、意識の集中が全く出来ません。強いてやろうとすると、偏頭痛が起こって益々実習が困難になります。
そこで、私はK先生に訴えました。「私にはどの瞑想も向かないようです(もう、帰りたい)」と…すると先生はすかさず「あなたは元波動瞑想をやったらいいです!」と言いました。”んもー先生!…最初から言ってよー…”
私はその瞬間水を得た魚のように、生き返った気がしたものです。
元波動瞑想とは聞きなれないでしょうが、このやり方というのは有って無いようなものです。
K先生も言ってるように、もっともシンプルな瞑想法?だと思います。
要するに元波動だか、ある種の形なきエネルギー的なものに任せるだけなのです。
これはしかし私には、先生から教わる以前から馴染みが有りました。
どこで覚えたのか、身に付いたのか…ある時、自然と自意識を超えて立ち上がってくる、喜ばしき”感じ”に委ねていたら所謂瞑想的意識状態というか、自分と周りの隔たりが無くなってしまったのです。
それは人為的、有為的なもの、自意識的なもの以前の、無為的、自然発生的なものにのっとる
もので、正しく人生の裏側に即した”方法なき瞑想法”なのです。
ドクター・ザボーが何時もやっているのがこれです。
人為的なものでないので何時始まり、何時終わるのか明確ではありません。何かが立ち上り、
自然と治まるまでというのが目安です。といっても自意識で止めようと思ったら止められます。決して何物かに操られる訳ではありませんので…
又時にそれは無為的な自動的身体運動を伴う事も有るのです。
これを立ったままやってたら、飛んだり、跳ねたり大変なことになる…ラティハン(スブド)、活元(野口整体)…霊動法などと呼ばれたりしますが…呼び方は自由ですが、おそらく”創始者”は誰も居ないでしょう!(面白がって勝手にやったり~もっともやり方は無いのですが~人前でやったりしてはいけません!)
表側?の瞑想法しか知らない方には、奇異に感じられるかもわかりませんが、伝統的宗教の裏側には常に存在していたと思われます。
瞑想やヨガとくれば、誰もがインドを思い浮かべるのでしょうが、それが知られる以前はこういうものが存在していたものと想像します。
老子などのタオの思想など、正しく無為の道であり、こうしたもの抜きでは考えられません。
これから埋もれていたものが段々表に顕れるにつれ、こうした瞑想?も復権してくるのではないでしょうか…。

大道廃れて仁義あり(老子道徳経)

坐忘廃れて難行あり(ドクター・ザボー)


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逆説的瞑想法指南

2015-05-05 14:42:02 | 祈りと瞑想
私がよく散歩している公園で、早朝しばしば見かけるケッタイな初老の男が居ます。
謎の瞑想家?ドクター・ザボーです。しかし彼は知人から聞いたような瞑想指導者などでは絶
対ありません!何故ならば、彼とは何度もここで会って話をしているが、ただの一度もその瞑
想の”やり方”を教えてもらったことが無いのです。それに…瞑想らしきことをいつもここで
彼がやっているというのはあくまで私の観方であり、彼自身に聞いたところ…「瞑想?修行?
どう言おうと君の勝手だが、私は何もしちゃあいないよ!何かをやろうとしちゃあ、ことは起
きないんだからね…」と例によって捉えどころの無い話で煙に巻かれる始末です…。
そして今朝、私が目撃したものは…これが何ともケッタイなものでした。確かにあれは瞑想の
ようではありません。何と言うか気功や何かの健康体操ともつかない、実に珍妙なものなの
でした。ひょっとして陽気のせいで気が変になってしまったのか、とも思ったのですが幸い向
こうから声を掛けてきたのを聞いて安心しました。ヘンな霊がかりになったんじゃないと知っ
て…
「私は別に猫の霊が憑りついたわけじゃないから心配ご無用だよ」
―し、しかし一体何をしていたのですか?
「いつも言ってるじゃあないかね。何もしとらんよ!何かをやる以前に何かが立ち上がってく
るのを待っているだけだよ」
―だけど、その何かがお出ましになるには何かをやる必要がある訳でしょう?
「ウーン…朝になると鳥が泣き始めるだろう…私もここで(公園のベンチ)座っていたら心身
がそれに対応するのだ…私が為そう、やろうとしたところでどうにもならない…」
―あのケッタイな動きもそうなのですか…あれは瞑想とは違う…ですよね。あんな気功だか太
極拳みたいなの…あまりおおっぴらにやらない方がいいと思いますが…
「ああ、つい出てしまったのだ…私の大本の方でそう促しているので…大本の意志の発露は極
力為されるに任すしかない…そして出てくるものはただ享受するだけだ。それに対して小賢し
い知恵などで、ジャッジしたり、色を付けたりするべきではない。ただそれが赴くままにし、
自意識で押しとどめてはならないのだ」
―自意識とは無関係に動き出すのですか!自力の瞑想修行とは全く違うというのは分かります。
「自力というのなら、おのずからなる力というべきだね。自力だとか他力だとか…弥陀の本願
というも只管打座というも…その妙味はここに在る…」
―”どうやったら、そうなるのですか?”というのは愚問なのでしょうけど、あなたはどうし
てそうなってしまったのですか?
「簡単に言うと…ある時理由も無く喜ばしい気分になって、神を求めようとして祈っていたら
ふと気が付いた。私が神を求める以前に、そのようにさせて止まない何かが有るのを…そして
こちらがそれを捉えようとする以前に、それに捉えられてしまった!という訳さ…」
―ヤッパリ捉えどころのない話ですねえ…。しかし聞いていると楽しいや…”瞑想のやり方”
だとか、とても面倒くさいものに思えて来ましたよ。
「そろそろ、君も捉えられてしまうんだろう…」

思い出しました。そう言えば私はちょっと前、ここで猫のペロちゃんに”捉えられてしまった”
事が有りました。ペロちゃんが居なくなったと思ったら、彼が突然現れたのです。ドクターは
とても神の化身には思えませんが、ひょっとして…と、見ると彼は上手そうに焼き鳥をほうば
っているのでした…。






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ダンマが顕わになる

2015-05-04 17:19:44 | 仏教関連
手島佑郎さんは著書「ユダヤ教の霊性」(教文館)で、東欧を中心に展開したユダヤ教神秘主
義ハシディズムの全貌を浮き彫りにされました。
それまでその資料がほとんど無く、わずかに哲学者のM・ブーバーの研究を通じてしか知られ
ておらず、大変貴重なものだと思います。
これによると、その有り様はブーバーが描いているような熱狂的な祈りの集会というものばか
りでなく、実際は瞑想あり、観仏、念仏のような修練あり、カバラーに由来する魔術的なもの
あり、実に多様性が見られるものなのでした。
そしてこれらが目指しているところは、いずれも”神との密着”つまり、”神と共に有ること”
ださそうです。
私がこのハシディズムの素描に触れて感じたのは、まるで各宗派に分かれる以前の仏教のよう
である、ということです。それは平安時代の仏教に伺えるものなのですが、貴族社会に閉じこ
もり、民衆に浸透するに至らず、形式化も強めて行ったようです。
鈴木大拙師は、”日本的霊性は鎌倉仏教において発露をみた”としているのですが、このこと
は一面仏教の分派が起こり、各宗派の独自の展開を強めて、トータルな仏教理解は希薄になっ
てしまったとも言えると思います。
そして自力だとか他力だとかの議論も喧しくなり、教義や修行に関する枝葉的な方に捉われ、
肝心の仏教本来の面目から離れてしまう事態を招いたと思われます。
玉城康四郎先生は、一貫して形なき命、ダンマに目覚め、生かされることを強調されているの
ですが、ダンマとは相対以前の根源的なものであり、これが顕わに生きて働く時、自ずと一な
る命に和合するものです。
先生の遺著でも示唆されているように、このことはひいては仏教のみならず、他の宗教的伝統
にも通底するものです。
ここに日本的霊性の発露は、全く全的、グローバルな様相で開示されるものであることを強調
したいと思います。
そして現代の状況では、”目覚めに預かる”といった現象は全く宗教を超えたところで起こり
、宗教の外、なんらの特定の信者でなくとも起きているのはご存じのとおりです。
これは正しく、玉城先生の仏教的表現で”ダンマが顕わになる”というその時節を迎えている
ように感じられます。
かつては一流の僧侶とか賢人にしか預かることが出来ない、とされていたものが別にどおって
ことない?人に及び始めている訳ですね。
これは本当の意味で仏道が下々にも浸透したという証かと思われます…。
そう言えばこれからは禅にも念仏にも通底した道が開示される? と架空のマスター、ドクタ
ー・ザボーは言ってました…










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もう一つの日本的霊性

2015-05-03 18:30:34 | 日本的霊性
十数年前、鈴木大拙さんの代表作として知られる「日本的霊性」という本を読みましたが、
私の読んだ印象としては…”残念だ!”というものでした。
少なくとも、それ以前に読んだ「禅の思想」ほどには、感銘を受けませんでした。
世界的に高名な学者さんの書かれたものであり、影響力もかなりあったものと想像されま
したが、”日本的霊性というものがあのように認識されていたのか”と思うと残念に思えて
ならなかったのです。
私には最後まで大拙師が言う”霊性”の意味がイマイチ伝わってこなかったのですが、その
発露は鎌倉仏教(とりわけ禅と浄土系のそれ)にあったと言います。
これに対し、我が国古来からの神道は霊性の自覚が曖昧だったために、儀礼的なものに堕し
、国家主義と結びついて歪められてしまった、とされています。
私は勿論鎌倉仏教が日本の精神性に大きな影響をもたらしたことを否定しませんが、師の神
道についての見解には限界が有ったと言わざるを得ません。(専門外なので当然でしょうが)
又霊性などというものを果たして概念だけで説明出来るものなのでしょうか?
私はそういうものは、出雲大社の某所とか、丹後の某所などの”私の聖地?”にしばし佇め
ば自ずと言葉で言い表せないものを通して伝わるものだと思います。
そして日本の精神史に大きな結節を開いたものとして、幕末から起こった神道運動~黒住
、金光、天理、大本といった教派神道、新宗教の台頭、私が”日本的メシアニズム”と呼ん
でいるものが挙げられると思います。
これを”霊性の発露”と呼んでいいのかどうかは分かりませんが、少なくともそれまで埋も
れていた、ある種の”霊脈”を発現させたとは言えると思っています。
それは…古代出雲、国つ神の霊統とでも言うべきか…ともかく戦前の伊勢~皇室を国家神道
を中心としたものとは別なる神統譜です。
今日は憲法記念日で、おそらく靖国周辺は騒々しいことになってるのでしょうが、”随神の
道”なんぞが復活したら、軍国主義がまたぞろ…などと神経をとがらせる向きもおられるこ
とでしょう。
だが我々の魂の故郷にずっとひっそり息づいている、み霊親の理念は”和合”なのです。
大本教ではかつて”火水のご用”という重要な神事が行われたことがあったのですが、それ
は天つ神と国つ神との和合、すなわち天地和合、神と人の和合の型だったそうです。
私はもとより如何なる宗教とも無関係で、そういう事を文字通り信仰している訳でもないの
ですが、ずっと心象には自己の大本なるものがあり、このものが表に顕れる時地上に大調和
世界が開かれる…というヴィジョンが映し出されているのです。
だが目下のところ、我々の意識の表側には元津神は顕わになっていないようです。
まだまだ他の顔色ばかり見ていて、こんなことを堂々と言えないですから…

わが軍は恒久平和なる神国の礎とならん!





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