どんな道でもそうですが、そこに関わっている人の意識状態というものが、その場の有り様に
密接に影響するものです。
ことにそれが我々の魂であるとか、本質的な部分に関わるものであれば、決して蔑ろには出来
ないですね。その指導理念というものは実に重要なものだと思います…。
S会という瞑想の裏側ともいうべき霊的修練を伝えている団体が有ります。
その説くところは、”神への全託により、その恩寵によって魂が開かれ、一人一人神につながる道があたえられる”というもので、どこか聖霊を強調するキリスト教と通ずるものが有ります。
私は人生の裏側を垣間見た後、それが封印されて元の木阿弥になって喘いで?いた頃、この
”神の恩寵に預かれる”というところと、宗教宗派を超えた包容性を標榜しているところに惹
かれて入ったことが有ります。
ところが一年くらい経過したころでしょうか、私はこの会は何から何まで、”言われているこ
とに内実性が全くなく、宙に浮いてしまっている”という感じを受けるようになりました。
まずその会は”宗教でなく、教えも理論も無い”と言います。ところが日本人でありながら、創始者B師がそうだったので、それにあやかってか?割礼までして回教徒になってしまう人が相次ぎました。
又、超宗教を標榜していたものの、私にはそのセクト主義的なものが鼻について仕方ありませ
ん。B師の教えが権威づけられていたように見受けられたのです。
こういう土壌にあって、さらに師が説いていた霊的進化論が会の中に浸透していることに気が
付きました。これはおそらく師がイスラム神秘主義から借りたものだと思われますが、”物質的段階から植物、動物…といった諸々の段階を経て神的段階に至る”という、永久に真我に目覚めることなど出来そうに無い、考えるだけでめまいがしそうなオカルト進化論です。
これで”我々は神秘主義でもオカルトでも無い”と言うのだから恐れ入ります。
私がどうしても違和感というか嫌悪感を覚えたのは、この教説モドキものが浸透してしまったら、全託という意味は全く宙に浮き、その道は閉ざされるだろう、ということなのでした。
これは普通に考えたら分かることです。何もかも神に委ねようとする人は、より高い段階への進化などに現を抜かしている筈も無く、そのような魂の進化論に捉われている向きは、全託ということなど、これっぽちも意識に無いことでしょう。
全託ということは”全て”ということであり、そうでなければ…オカルトモドキのことに頭をたくましくしているか、どっちかしか無い筈なのです。
何が危険かと言って、こういうどっちつかずの中途半端な意識状態に置かれることが一番危ないのです!
こういう時は、私が普段つぶやいていることと、手のひらを返したような事を言いたくなります。
”魂が進化するのは誰ですか?””何が進化をもたらすのですか?”
”あなたが本当に全託と言う意味を理解した時、あなたは全く無力で、何一つ出来ない事を思い知るだろう…”
そして当然の如く?会の中に混乱した人たちも現れ始めました。
そこでも”混乱しているのは誰ですか?”あなたの中に混乱することも、あてどの無い魂の進化も退化も無い、変わらず生き続けているものにこそ
意識を向けるべきなのです。それは勿論あなたの力によってでは無く、神、真我の恩寵によってです。…
というようなことは今だから書けるのですが…あの時はフタが閉まったままで、エゴの密閉空間で喘いでいたのでした…。
密接に影響するものです。
ことにそれが我々の魂であるとか、本質的な部分に関わるものであれば、決して蔑ろには出来
ないですね。その指導理念というものは実に重要なものだと思います…。
S会という瞑想の裏側ともいうべき霊的修練を伝えている団体が有ります。
その説くところは、”神への全託により、その恩寵によって魂が開かれ、一人一人神につながる道があたえられる”というもので、どこか聖霊を強調するキリスト教と通ずるものが有ります。
私は人生の裏側を垣間見た後、それが封印されて元の木阿弥になって喘いで?いた頃、この
”神の恩寵に預かれる”というところと、宗教宗派を超えた包容性を標榜しているところに惹
かれて入ったことが有ります。
ところが一年くらい経過したころでしょうか、私はこの会は何から何まで、”言われているこ
とに内実性が全くなく、宙に浮いてしまっている”という感じを受けるようになりました。
まずその会は”宗教でなく、教えも理論も無い”と言います。ところが日本人でありながら、創始者B師がそうだったので、それにあやかってか?割礼までして回教徒になってしまう人が相次ぎました。
又、超宗教を標榜していたものの、私にはそのセクト主義的なものが鼻について仕方ありませ
ん。B師の教えが権威づけられていたように見受けられたのです。
こういう土壌にあって、さらに師が説いていた霊的進化論が会の中に浸透していることに気が
付きました。これはおそらく師がイスラム神秘主義から借りたものだと思われますが、”物質的段階から植物、動物…といった諸々の段階を経て神的段階に至る”という、永久に真我に目覚めることなど出来そうに無い、考えるだけでめまいがしそうなオカルト進化論です。
これで”我々は神秘主義でもオカルトでも無い”と言うのだから恐れ入ります。
私がどうしても違和感というか嫌悪感を覚えたのは、この教説モドキものが浸透してしまったら、全託という意味は全く宙に浮き、その道は閉ざされるだろう、ということなのでした。
これは普通に考えたら分かることです。何もかも神に委ねようとする人は、より高い段階への進化などに現を抜かしている筈も無く、そのような魂の進化論に捉われている向きは、全託ということなど、これっぽちも意識に無いことでしょう。
全託ということは”全て”ということであり、そうでなければ…オカルトモドキのことに頭をたくましくしているか、どっちかしか無い筈なのです。
何が危険かと言って、こういうどっちつかずの中途半端な意識状態に置かれることが一番危ないのです!
こういう時は、私が普段つぶやいていることと、手のひらを返したような事を言いたくなります。
”魂が進化するのは誰ですか?””何が進化をもたらすのですか?”
”あなたが本当に全託と言う意味を理解した時、あなたは全く無力で、何一つ出来ない事を思い知るだろう…”
そして当然の如く?会の中に混乱した人たちも現れ始めました。
そこでも”混乱しているのは誰ですか?”あなたの中に混乱することも、あてどの無い魂の進化も退化も無い、変わらず生き続けているものにこそ
意識を向けるべきなのです。それは勿論あなたの力によってでは無く、神、真我の恩寵によってです。…
というようなことは今だから書けるのですが…あの時はフタが閉まったままで、エゴの密閉空間で喘いでいたのでした…。