人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

人間はスピリチュアル

2015-10-03 20:51:38 | スピリチュアル?
psyは投げられた!…ただのハッタリじゃあなかったんですね。
脱スピ・リンクはなし潰しという状態になってしまいました。
でも各ブログ主さんもずっと、その立ち位置で続ける気も無かっただろうし、あまりにも行き過ぎた記事もあり、いつかはこういう事になるのではないかとは思っていました。
それにしても、大御所さん、訴訟というこれ以上ない二元的な対処に打って出ようとは…
あの極端な非二元論は元々破たんしたものだという事を自ら証しているようです。
非二元原理主義は際立つ二元性に堕ちるしかない…
この”ストーリー”はお釈迦様でもシャンカラチャリヤでも気が付くまい…あの人はこの期に及んでも”ストーリー何てない、何かをやらかす自分何てない”と言い続けるんでしょうかね。

本当は宗教とかスピリチュアルとかいった、特別なカテゴリー何てあるからおかしくなるんだと思います。
宗教屋だのスピ屋だのがはびこり、又それに依存する者も後を絶たなくなるのです。
人にはそれぞれ生活の手段として生業があり、家庭の生活があり、余暇として娯楽とか文化活動があり…
この文化…宗教もスピもその中の一つとして見ている向きもあります。要するに宗教文化、スピ文化です。
そして”今、こんな教えがウケてますよ~””この先生が評判いいですよ~”と口コミで広がったりします。
あたかもアイドルの追っかけを彷彿させるものもあります。
そんなところに一体、何かが根付くなどと言う事が有るでしょうか?
根…根底…実は宗教やスピの内実というものは、我々の諸々の営みの根底としてあるべきものなのではないでしょうか?
それは全て、言うまでも無くここに生きている自己に帰結します。
自己とは? その不明なる自己を明らかにする、又は自己の限界にあって、自己を超える…言い方は様々ですが、これがあらゆることの根本となるべきもので、それらに通底しているものではありませんか?
何でそれが、文化活動の一つなんかに収まってなどできるのでしょう!
そして、宗教、スピ界に関わってバカを見て懲りた人は、せっせと生業、社会生活などに常識人として生き方を向き替えますか?…
空想やら妄想なんかに興じてなどいられませんからね…
それで生活も成り立って、上手くやっていけるんなら、何も言う事ないですね。
正直言って私はこの見たままの現実世界、思われたままの自己に、安心立命はおろか自分の居所すら見出せません。
訳の分からんマントラや、瞑想を紹介したり、有難そうな教えを垂れる気も毛頭ないです。
だからと言って、”スピなど卒業して、社会人としてマットウに生きて下さい”などと言えた義理もありません。
空想や妄想の世界でもなく、世間的常識の世界でもなく…ただ人間らしさを求めている、といったらいいでしょうか?
人間らしさ…それは誰しも求めていることなのですか?
想像でしか分からないようなエーテル状の人間とか、記号のように扱われる人間て人間らしいですか?
人間らしさなど、誰にも分からないのかもわかりません。
人間自体が分からないものですから…
でも、時々朝目覚めた時など、少なくとも自分らしさというものを感じる事が有ります。
それはずうっと昔から、当たり前のように知っているような、忘れていたようなあるものなのです。
だが、それはこの世の常識の範疇には絶対無いものです。
自分が何であるかも分からないのに、何故そのように感じられるのかは理解出来ません。
それは、普段思われたままの自分でないのは確かな事です。
思われたままでは、この”らしさ”は見い出せないのです。
人間はなんてスピリチュアルなんでしょうか…







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憂愁と郷愁

2015-10-01 20:16:03 | 映画・音楽など
すっかり空気もひんやりしてきました。今日は生憎の天気で、心なしか気分はブルー…
秋はいいです。感傷に誘われるから…もう黄昏時など、ジワーッと込み上げてくるものがあってじっとしてられなくなりそうです。
出来る事なら、いつもそうしていたいです。
楽しくないのかって?…楽しいんですよ、これが! だってこれが私らしい気分なんですもん…
私らしいということは幸せに感じられるということです。傍目にはともかく、別に本当に憂鬱になってる状態とは違います。
本当に憂鬱になってしまうのは、例えばこういう気分に浸っている時、周りから「ホラ、元気出せよ、明るくなれよ、さあ、笑って…」などと煽られてしまって、にわかに自分を取り繕うとして、そうなれなくて葛藤してしまう事だったりします。
で、ホホのあたりを引きつらせて作り笑いして、気味悪がられたりして…(笑)
明るい、ネアカはハッピー…憂い、ネクラは不幸…これでは私の居場所がなくなるじゃないの…
私はやっぱり異端なのでしょうか? 多くの人の本音を代弁してると思ってるんですけどね。
こういう気分というものが一体どこから来るのか…私は感じてます。
ジワーッと裏側からの調べが、思いとか感情に間接的に染み込んでくるのです。
あの微妙な悲しみはどこからくるのか? 失ったものに対して…それとも、これから失うものに対して?…
そしてそこはかとなく漂う郷愁…これはおそらく失ったものの蘇りがどっかで感じているところから来るのでしょう。

巷で名曲と言われている曲は、バラード系とか感傷をそそる曲が圧倒的に多いんじゃないですか?
ちなみに私の自己満足オールタイム・ベスト100(これは表(A)面、裏(B)面取り交ぜてのものですが)には、明るくハッピーな曲など一曲たりとも入っていません。
これはもう、ミディアム調もかなりありますが、哀愁を誘うもののオンパレードとなります。
歌などであまり感情を高ぶらせて歌うものは好きじゃなくて、抑制が効いたものがいいです。かなり表よりのものでは、ビートルズの「ミッシェル」とか、ストーンズの「ルビー・チューズデイ」とか…
これがB面となると、かなりノスタルジー色が濃くなります。
映画音楽では、ニーノ・ロータなどA面に入れるかどうか迷いますが、F・フェリーニ監督の「アマルコルド」のテーマなどは常に上位間違いなし!です。
他の上位曲は例によって”X”色が強くなります。
昔からのラテン音楽ファン(かなりのオジン?)は、ジョニー・アルビーノという歌手を御存知の方もおられるでしょう。トリオ・ロス・パンチョスのメンバーとして何度か来日してます。
でも遅れてきた愛好家の私的には、それ以前のトリオ・サン・ファン時代のその個性がいかんなく発揮されていた演唱で馴染みが有ります。
ところが、それを聴けるレコードというのは全く我が国では紹介された事が有りません。
大体この歌手のようなプエルトリコのボレロ系のアーティストというのは、ニューヨークに出稼ぎに来ていたものも含めて、ほとんど日の目を見たことが無いのです。多分今後も無いと思われます。
50年代を中心として質量ともボレロ大国だったのにも関わらず…(カリブ海に浮かぶ小島ですが)
ついでなので、もう二つプエルトリコ系で…これが上位の常連です。後はタンゴとかシャンソンとか色々…(ちょっとずつ小出ししているのです。)
(何だかこういうもの専門のブログを立ち上げなきゃならないかも…)
Oイナタイ感じのミュート・トランペットが特色のクアルテート・マジャリー。この奏者プラシド・アセベ-ドがリーダーで、レパートリーのほとんどを書いてる同国を代表するコンポーザーの一人です。
Oラファエル・ムニョスという人は、有能なコンポーザーでも、歌手でも、コンサート・マスターでもありません。
ただ、それらを備えたバンドと、そのきらびやかな演奏と共に記憶されている、おそらく名前だけのリーダーです。
長いキャリアがありますが、1940年ごろが全盛でした。歌手はホセ・ルイス・モネーロ。

Johnny Albino Y Su Trio San Juan ,Siete Notas De Amor(七色の恋)

Cuarteto Mayari ,Dulce Veneno

Rafael Munoz Y Su Orquesta, Sin Ti













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