人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

内なるもの、外なるもの

2016-05-21 20:08:06 | 哲学・思想
精神、スピ的な表現というのは、感覚的なことに触れざるを得ないので、言葉の限界から文章的には随分オカシナ点も生じてくるのも致し方ないことです。おまけにこの文章力の無さが、更に訳の分からないものにしていて、いつも面目なく思ってる次第なのです。

「真の導師はあなたの内に居る」(ラマナ・マハルシ)
など、この界隈では頻繁に”内なる…”という言い回しが使われますね。
私も”内なる催し、促し”と言ったり、それに対し外から照明のようなものを受けると言ったり…これはあくまで微妙な感じ方に基づいているのです。
この場合の”内、外”と言っているものは、この肉体と言われる壁みたいなものを隔てるものとして、そう言っているまでです。
これが意識が深くなって、この壁がうすーく感じられるようになると区別がつかなくなります。
というか元々この場合、厳密に区別する意味は無いとも言えるのです。
別の意味で、私はこの内なるもの、外なるものについてハッキリ認識しているものが有ります。
私はオカルト的なもの、それ自体を否定している訳では無いのですが、関わり方次第では捉われの元になるという事は指摘しておきたいと思います。
何故捉われやすいか?…まず外目に付きやすいです。実際には特殊な人以外見えないですが…
例えば、前世の自分、未来の世界像、宇宙生命体、霊界の高次、低次世界の様相…いずれもすぐに想像を掻き立て、ヴィジョナリーなものを思い浮かべやすいものです。
形あるものを想定出来る、という事はとても捉えやすい要素を持つものなんでしょうかね。
オカルト愛好家?のある人たちは、ただそれだけで短絡的に信じ込んでしまうのです。
それに、その道の巨匠のお墨付きなどが加わると、益々その信仰が強固なものとなるようです。
何処にも実在性の確証など無いにもかかわらず…です。
と言っても、私は精神スピ的なものは科学とは畑が違うので、実在性を証明する必要などそもそも無いと思ってはいますが…
客観的事実というものこそが、外なるものと言ってもいいでしょう。
そもそもオカルトというのは科学と結びついているものです。精神科学なのです。
それ自体はとても意義のあるものですが、内?面の道を歩む上では、混同されるべきものじゃないと思われます。
又、観念的、思弁的なものに留まっている有り様も外なるものと言っていいでしょう。一方感覚というのは実に微妙です。
内なるもの…として私が言い表しているものは、言うまでも無く体の内…という事では無く、上からの或いは外からの照明だろうと、”ここにある”というところから離れないもののことを言っています。
前世とか未来について言えば、内なるもの~”ここ”にありながらそうしたものが示される、という事も有り得ることです。過去も未来も現在も”ここ”に生きてくるのです。
ただ、それをあたかも確証を得たかのごとく科学的事実のように表明されてしまうと、たちどころに内なるものから外なるものへとスリ代わってしまいます。…意識が外向きに馳せて行くからです。これが混同という事、神とつながるというところから”脱線”につながるのです。
”ここ”から意識が離れている場合、上っ調子な人はもう、とにかく前述の想像上の形とか権威的なものに飛びついてしまうものです。
言われている内容が如何に前世とか、目に見えない世界について述べられていようと、”ここ”に無いものは、私的には外なることなのです。
”ここ”に意識が無いという事は、自己に向けられていない、という事です。
それでは、何時まで経っても、ありのままの自己はフタ閉めされたままで、自己との和合は出来なくなります。
自己との和合あって、外なるものとの和合も開かれてくるのでしょう…
外なるものは、内なるものの投影なのです。





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心の羅針盤

2016-05-20 00:04:41 | ガイダンス
”熊本地震は人工地震だった”という流言がネットで飛び交っています。
ただでさえ、おおよそ常識も良識も感じさせない妄言だとしか思わないですが、これを世界平和を祈っていると言う御仁が、それを信じ込んでタレ流しているというのだからアキレる他ありません!
自分で妄言を拡散しておいて、すべてを消えて行く姿にして、神にお任せしましょう…というのは一体、どういう神経なのでしょうか?
この人は、こんな批判など”消えて行く姿”にするのでしょうが、自分のカルト、オカルト思考は何時までも消えて行かず、もうあっちへ脱線、こっちへ脱線…おバカな事をずっと繰り返しているのです!…これも、こうしたオカルト好みの言い方で言えば、前世の因縁という事なのでしょう…多分、コワイ目に遭ったことが無いのか、免疫が無いのでしょう。
世界平和がどうこうという以前に、自分の迷妄を何とかする方が先決です。世界平和の一歩というのはそういう事でしょう。
ああ…この方の天命が全うされますように…

私の精神的探究の中で唯一といっていい、失敗した例は邪教的集団に近づいてしまったことでした。
これは、知人がその集団にハマりかけ、何かの論争の時、この知人の”邪教かどうか実際に行って確かめるべきだ…”みたいな挑発的な言葉にうかつに乗った私自身の思慮不足と勝気?が招いたものなのでした。
又、予言だとか霊がかりといった、オカルト的な事に興味を抱いていて、どこかにそうしたものを引き付けてしまう部分もあったように思います。
以前から私には、見えない導きらしきことを覚えていたのですが、それは声なき声というか内なる促しというか、微妙な感じで訪れるものなのですが、その集団の教会に足を踏み入れた時ばかりは違っていました。何か背筋の辺りにゾクゾクと悪寒が走ったかと思うと、”一刻も早くここを立ち去れ!”というような強い調子で駆り立ててくるものを感じたものです。
この事を通して、興味本位にオカルトに接近することの愚かさ、恐ろしさを身に染みて思い知らされました。(こうした予言、霊がかり、超能力などオカルト、カルト思考から抜け出したいという人には、「日月神示」を丹念に素直な心で読まれることをオススメします。ただ頭の中のそうした固定観念は脇に置く必要が有りますが。でないと逆効果かも…)
そしてすぐ、あの意識が飛んで行ってしまうような、精神的に不安定な状態に見舞われたのです。
これまで、精神的に”これはキケン…”と感じたのはこの時だけだったと思います。
私はただ、もう祈るしかありません。それからです…あの見えない導きが顕著に感じられるようになったのは…
そして、その事を契機に何か私に心の羅針盤のようなものが与えられたのです。
それは内側からは、先述の促し、外側からは、あのすべてを見通す照明、という風に感じられるものでした。(後者は既述のように自覚したのは最近のことですが…)
頭の中でゴチャ、ゴチャ思いが去来してたり、捉われていても中々判断が出来ないものですが、いつの間にか内からも外からもこの羅針盤に照らされるようになったのです。といってもそれは、目で見て分かる何かの判断基準みたいなものが有る訳でも無く、見えない導きから醸し出される愛、喜びと共にあるものが道標になっていたのです。(気が巡っていたのかどうか分かりませんが、身体的に暖かみも覚えていました。)
そうでないものは、たとえ真実らしきことが頭で判断されるような事が有っても反応しない(暖かみが感じられない)のです。(東大生だって邪教にハマるおバカも居ますからね…)
何が真実で何が正しいか…という事を判断する際には、得てして自分自身の固定観念に捉われがちになったりして、偏った判断をしてしまったりするものです。
私はいつの間にかこの羅針盤に委ねるように導かれるようになりました。
その全てが正しいことかどうかは分からないですが…でも初めの愛を忘れ、離れることは絶対的に間違いです!
初めの愛に立ち返ることが迷妄から覚める事ではないでしょうか?…










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初めの愛と幸福

2016-05-17 16:07:46 | スピリチュアル
成功、物質的な豊、自分の嫌な性格や人間関係の改善、…
これらはいずれも幸福な生き方というものと直結していると言えます。
人間は精神的な欠陥でもない限り、幸福でありたいと思って生きているものです。
それ自体悪かろうはずはないです。
でも、いくらそれらを求め続けていても、なかなか思うようにいかない現実の壁にぶつかったりなどして、かえって不満を抱えて幸福ならざる生き方になってしまったりします。
又、せっかく前記のような境遇に恵まれて、一時幸福感に預かれても、何時しかそれらは風と共に去って行ってしまう事も有ります。
御利益宗教や成功実現セミナーなどの教師などの多くは、”神の恩恵を受けたのなら、現象的な富や成功となって表れなきゃあオカシイ…”などと言う人も居ます。
その周辺にはいつも明るく、楽しく、そして正しくあるべき成功、富、幸福の浮かれ話が取り巻いています。
何か常にそういう環境が持続してなきゃならないみたいです。
どっかそういう環境は作り出されているようなところが見受けられるのです。
そういうところでは、色々な面で強迫観念に苛まれるものです。幸福であらねばならないのか…と。
しかし、どうしても”あの歓喜、幸福感はどうして去ってしまったんだろう、どうやったら取り戻せるのだろう…”という事を考える向きも出てくるでしょう。
又、その中には”神に祈っている時、歓喜に包まれたけど、どうして現象として表われてこないんだろう…祈り足りないんだろうか、もっと強めねばならないんだろうか…”と感じている者も居るかもわかりません。
こういうこと自体、その問題が那辺に有るのかを言い表しています。
彼らは幸福になるべき成功、富、性格改善等を求めているのです。幸福になることこそが目的なのです。
神は二の次であるかのようです。ここからズレが始まります。
いいや、もっと言えば神信仰、神の教えへの帰依、神秘体験や悟りの追及…
これらさえ、神的なのもの、そのものとの有り様からしばしばズレてしまうものです。
間に固定観念とか信念などが介在することでそうなります。
ズレてしまうという事は、常に変質する可能性が有る、という事です。
信仰も修行も諸々の体験もどこかで神抜きのものにもなり兼ねないのです。
これは、例えば悟りというものが、自分が一生懸命信仰、修行に励むことにより達成し、獲得するものだ、と錯覚するなど有限的な自己への捉われから来るようです。
そこから、”初めの愛”を忘れ、そもそもの源泉から離れた本末転倒した様相に転じてしまうのです。
同じように、有限的自己を起点にして得られた如何なる幸福も又有限なものとならざるを得ません。
”初めの愛”…恩寵…そこで有限的自己は無化(少なくともその契機には)されることが知られるでしょう。
そして、そこには喜ばしきおとずれが…それが幸福の源です。
これが無い、というのはどっかがオカシイ…現象的な表れというのは有っても無くても…特別な体験が有っても無くても…
幸福は神と共にあるからです。単純に”神様が好きだ¡”という人には言葉は要りません。
本源的幸福は獲得したり、それを持続したりする必要が無いものです。
この世の愛、幸福にあなたは裏切られるでしょう。しかし、神、初めの愛は決して裏切ることが有りません。
だから…もう裏切らないで!…





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人間という名のキカイ

2016-05-15 14:36:04 | 独語
グルジェフは人間は機械だと言った…

あの電車の向座席の人、一分としてじっとしてられないらしい…キョロキョロ、ソワソワ、なんと落ち着きないこと…
よく見ると三通りのパターンを繰り返している様だ…頭掻いたり、腕を組んだり…
ほら、今度は鞄をゴソゴソし出した…”三の法則”
いつもエラそうなあの人にこんなこと言ってみた…
”アンタは全く頼りない、こんなことも出来ないのか!”
すると、一瞬凍りついて間が有ってから、ついに爆発した!…この間七秒か?…”七の法則”
(それにしても想定外のドデカイ怒鳴り声だった…日頃のうっ憤晴らししたったぞい…)

現都知事、あなたもか!…エライ人の椅子に座ると、誰でもが自動機械のように公的資金を流用しちゃうのか…
気鋭の国際政治学者だった?…誰だ、そりゃあ…
Bさん、キケンな恋とは縁の無い僕には、それがどんなものかは知る由も無いが、芸能界なんてのど元過ぎれば何とやら…なんてもんじゃないですか? 観て楽しんでいる人らは、熱くなったり、冷めちゃったり空調みたいなものでしょ…
誰もが皆終わりなき日常に埋没しちゃうのか…今日は退屈な日曜日、いつもの「笑点」でも観よう…

人間は何とキカイな生き物だろう
機械はこの生き物よりはるかに高性能だろう…
産業のことは機械にまかせときゃ良かったはずなのに…
すぐにイカレちまう、ポンコツ機械モドキの大量生産…
こりゃあ、失敗は許される機械モドキの取り返しのつかない大失敗か…
高性能な方の機械は自分が機械だと自覚することが出来ない
自覚出来るポンコツ機械モドキ…彼には自らの悲しみ、痛み、そして弱さが分かるのだ
あの高飛車でいつも自分を強く見せてばかりいたヤツが、弱味をさらけ出していた…
僕はその時、期せずしてもう一人の自分に立ち返ることが出来た
僕はそこに本当の人間の強さを知った
5年前、僕はすっかり何をする気力も無く、惰性をむさぼっていた
僕にあの童心をよみがえらせてくれたのは、ノラ猫ペロちゃんだった…
僕たちはいつも吸い寄せられるように、あの公園で引き寄せ合った
あの暖冬の夕方、紅に染まっていく空が誘ったのか、僕は数年ぶりにあの現臨に捉えられた…
今ここに死んだ過去がよみがえった
機械じみた、無機質な人生に風穴が開けられ、
息も詰まるような密室に、新鮮な空気がもたらされるのは、
初めの愛、歓喜だ…
しかし、機械モドキとなった人間は、自分でそこに立ち返ることが出来ない…
だが…あらゆるものがそれの媒体となって、僕たちを気付かせてくれる
捉えられる何ものも無いものこそが、愛であり、喜びなのだ
僕たちは本当は機械じみた終わりなき日常を終わらせたいんだ…

ミクちゃん、君がもし人間になったとしたら、その時僕たちは神になれるのだろうか、それとも産業廃棄物になっちまうんだろうか?…










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固まりとハタラキ

2016-05-12 12:38:01 | 現臨、ハタラキ
スピ界を初め、精神的なものに普段関わっている中で、当たり前すぎて気付きにくいことが多々あります。
例えば、二元だとか非二元だとかという観方が有ります。
どっちが真実かなどと、論証に躍起になったりするわけですが、我々が観ている事物そのものは、二元だとも非二元だとも主張している訳ではありません。
こういう事はどこまでも我々がそう観ている、あるいは観たがっているに過ぎないのであって、事物そのものはそうなっているか、どうかなど分かっちゃいないのです!
この我々が観ている事物は、物質で出来ている…肉体もそう出来ている、と当たり前のように思い込んでいますが、科学者などがそういう客観的事実らしきことを決まり事のように言っているから、それに倣っているだけです。
そして、この物質と精神とは別の次元のもので、物質は固形的、精神は流動的なものとこれまたそう信じられています。
世に唯物論とか物質主義と言われている考え方が有りますが、これは間違いなく精神の産物なのです! これに対するとされる観念論を初め、自由主義、社会主義、数多の宗教思想…全てがそうです。
又、誰が決めたのか物質は、もっとも低次の段階であり、だんだん微細になってくるにつれて高次になると言う…神の次元が究極らしいです。
人間存在もまた肉体以外に、アストラル体、エーテル体、コーザル体…といった見えない何らかのボディで構成されているという思潮もあるらしい…
これは多く修行体系…より高き次元への進歩に対応して考えられています。
OO体、と言ったら肉体の延長のようにイメージされてしまうが…というかそうした説明には図や表が不可欠のようです。神の次元まで図表で示されると、天国は幾何学図形で出来ているのかと思えてきます。
エホバの神、アラーの神、低級、あるいは高級な諸々の霊…それらを語る人は、それらを実体あるものの如く語ります。
(私も思われていた自己に対し、自己の本体らしきことを語ったりしますが、勿論その実体は見たことありません)
でも、それら実体あるもの如く表せられるものは、どこまでも見えるもの、捉えられるものの延長でしょう。
非二元論とかノンデュアリティという観方というのは、こうした思い込まれた、固定された観方に風穴をもたらすものであるのは確かな事だと思います。分離思考などと言いますが、分離とか、固定したモノというのは、このように精神の産物と言えます。このネーミング自体は、そう観ている、あるいは観たがっている人の都合に過ぎないですが…
しかし、それも「私はいない」、「全てはストーリー」といったお決まりのフレーズ、究極の”これしかない”真理などと主張されるや、また一つ精神の産物に過ぎない固まった主義が生まれるに至ります。
こうしたことはどうして起こってくるのか?…心とか精神というものは、元々目に見えないし、掴めないものです。
だからこそ、目に見える形や、岩のように動かないものに借りようとするからでしょう。
真理を確たるものにしないとならない…これこそは捉われの初めです。
そうやって何か生命あるものをずっと手中に置いておこうとするのでしょう。
皮肉にもそこから生きたものは蒸発し始めるか、風と共に去って行くばかりです。
偶像崇拝というものの本質もこうした点にあります。それに陥ると異教の神に誑かされる訳じゃない、生きた精神が枯渇するのです。
こうしたことの根本的事由は、生きたハタラキを感受出来なくなった、という事に尽きるでしょう。
全ての原理主義には生きた精神など見出されません。
こう見ると、凝り固まった事物が有る訳でなく、凝り固まった精神ばかりが有る、と言ってもいいでしょう。
物質的なものは成程固定した、それ自体生きていないように思えます、しかし、私はそれが媒体となってあのハタラキを感受したことが幾度となくあります。その時、自らもその媒体になっているのを覚えます。
又、自分が生き返ったように感じられて来ます。そして…
おおっ…死んで動かないような周りのものも生き返ったように感じられてくるではないか!…






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