精神、スピ的な表現というのは、感覚的なことに触れざるを得ないので、言葉の限界から文章的には随分オカシナ点も生じてくるのも致し方ないことです。おまけにこの文章力の無さが、更に訳の分からないものにしていて、いつも面目なく思ってる次第なのです。
「真の導師はあなたの内に居る」(ラマナ・マハルシ)
など、この界隈では頻繁に”内なる…”という言い回しが使われますね。
私も”内なる催し、促し”と言ったり、それに対し外から照明のようなものを受けると言ったり…これはあくまで微妙な感じ方に基づいているのです。
この場合の”内、外”と言っているものは、この肉体と言われる壁みたいなものを隔てるものとして、そう言っているまでです。
これが意識が深くなって、この壁がうすーく感じられるようになると区別がつかなくなります。
というか元々この場合、厳密に区別する意味は無いとも言えるのです。
別の意味で、私はこの内なるもの、外なるものについてハッキリ認識しているものが有ります。
私はオカルト的なもの、それ自体を否定している訳では無いのですが、関わり方次第では捉われの元になるという事は指摘しておきたいと思います。
何故捉われやすいか?…まず外目に付きやすいです。実際には特殊な人以外見えないですが…
例えば、前世の自分、未来の世界像、宇宙生命体、霊界の高次、低次世界の様相…いずれもすぐに想像を掻き立て、ヴィジョナリーなものを思い浮かべやすいものです。
形あるものを想定出来る、という事はとても捉えやすい要素を持つものなんでしょうかね。
オカルト愛好家?のある人たちは、ただそれだけで短絡的に信じ込んでしまうのです。
それに、その道の巨匠のお墨付きなどが加わると、益々その信仰が強固なものとなるようです。
何処にも実在性の確証など無いにもかかわらず…です。
と言っても、私は精神スピ的なものは科学とは畑が違うので、実在性を証明する必要などそもそも無いと思ってはいますが…
客観的事実というものこそが、外なるものと言ってもいいでしょう。
そもそもオカルトというのは科学と結びついているものです。精神科学なのです。
それ自体はとても意義のあるものですが、内?面の道を歩む上では、混同されるべきものじゃないと思われます。
又、観念的、思弁的なものに留まっている有り様も外なるものと言っていいでしょう。一方感覚というのは実に微妙です。
内なるもの…として私が言い表しているものは、言うまでも無く体の内…という事では無く、上からの或いは外からの照明だろうと、”ここにある”というところから離れないもののことを言っています。
前世とか未来について言えば、内なるもの~”ここ”にありながらそうしたものが示される、という事も有り得ることです。過去も未来も現在も”ここ”に生きてくるのです。
ただ、それをあたかも確証を得たかのごとく科学的事実のように表明されてしまうと、たちどころに内なるものから外なるものへとスリ代わってしまいます。…意識が外向きに馳せて行くからです。これが混同という事、神とつながるというところから”脱線”につながるのです。
”ここ”から意識が離れている場合、上っ調子な人はもう、とにかく前述の想像上の形とか権威的なものに飛びついてしまうものです。
言われている内容が如何に前世とか、目に見えない世界について述べられていようと、”ここ”に無いものは、私的には外なることなのです。
”ここ”に意識が無いという事は、自己に向けられていない、という事です。
それでは、何時まで経っても、ありのままの自己はフタ閉めされたままで、自己との和合は出来なくなります。
自己との和合あって、外なるものとの和合も開かれてくるのでしょう…
外なるものは、内なるものの投影なのです。
「真の導師はあなたの内に居る」(ラマナ・マハルシ)
など、この界隈では頻繁に”内なる…”という言い回しが使われますね。
私も”内なる催し、促し”と言ったり、それに対し外から照明のようなものを受けると言ったり…これはあくまで微妙な感じ方に基づいているのです。
この場合の”内、外”と言っているものは、この肉体と言われる壁みたいなものを隔てるものとして、そう言っているまでです。
これが意識が深くなって、この壁がうすーく感じられるようになると区別がつかなくなります。
というか元々この場合、厳密に区別する意味は無いとも言えるのです。
別の意味で、私はこの内なるもの、外なるものについてハッキリ認識しているものが有ります。
私はオカルト的なもの、それ自体を否定している訳では無いのですが、関わり方次第では捉われの元になるという事は指摘しておきたいと思います。
何故捉われやすいか?…まず外目に付きやすいです。実際には特殊な人以外見えないですが…
例えば、前世の自分、未来の世界像、宇宙生命体、霊界の高次、低次世界の様相…いずれもすぐに想像を掻き立て、ヴィジョナリーなものを思い浮かべやすいものです。
形あるものを想定出来る、という事はとても捉えやすい要素を持つものなんでしょうかね。
オカルト愛好家?のある人たちは、ただそれだけで短絡的に信じ込んでしまうのです。
それに、その道の巨匠のお墨付きなどが加わると、益々その信仰が強固なものとなるようです。
何処にも実在性の確証など無いにもかかわらず…です。
と言っても、私は精神スピ的なものは科学とは畑が違うので、実在性を証明する必要などそもそも無いと思ってはいますが…
客観的事実というものこそが、外なるものと言ってもいいでしょう。
そもそもオカルトというのは科学と結びついているものです。精神科学なのです。
それ自体はとても意義のあるものですが、内?面の道を歩む上では、混同されるべきものじゃないと思われます。
又、観念的、思弁的なものに留まっている有り様も外なるものと言っていいでしょう。一方感覚というのは実に微妙です。
内なるもの…として私が言い表しているものは、言うまでも無く体の内…という事では無く、上からの或いは外からの照明だろうと、”ここにある”というところから離れないもののことを言っています。
前世とか未来について言えば、内なるもの~”ここ”にありながらそうしたものが示される、という事も有り得ることです。過去も未来も現在も”ここ”に生きてくるのです。
ただ、それをあたかも確証を得たかのごとく科学的事実のように表明されてしまうと、たちどころに内なるものから外なるものへとスリ代わってしまいます。…意識が外向きに馳せて行くからです。これが混同という事、神とつながるというところから”脱線”につながるのです。
”ここ”から意識が離れている場合、上っ調子な人はもう、とにかく前述の想像上の形とか権威的なものに飛びついてしまうものです。
言われている内容が如何に前世とか、目に見えない世界について述べられていようと、”ここ”に無いものは、私的には外なることなのです。
”ここ”に意識が無いという事は、自己に向けられていない、という事です。
それでは、何時まで経っても、ありのままの自己はフタ閉めされたままで、自己との和合は出来なくなります。
自己との和合あって、外なるものとの和合も開かれてくるのでしょう…
外なるものは、内なるものの投影なのです。