人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

カンガエルこと

2016-07-21 15:35:39 | 意識、照明
私がこうしてブログを書いている意味、それはとても一口では言えないものが有ります。
ま、ほとんどが自己満足なんですけど…
書いていることで、長―い間、忘れていた過去の記憶が突然よみがえってきたり、言葉に表せなかったことが、ポンと文章として出てきたり、気付きを与えられたり…
肉体的な衰えは隠せないですが、精神面で若返って来たのも確かな事です。
要するに何でブログ書いているのか、と言ったら老化の防止のためでもあるのです(笑)
どうして、そういうことになるのか?…勿論考えているからですよ。
思考、マインドというのは、ある種のスピ界隈~ことに瞑想を重んじるもの~では仇敵のように扱われていますね。
直観派?を自認している人なんか、”私は考えてものを書いたり、言ったりなどしてないんですよ~”などとウソぶいたりしてますけど、何も考えてなかったら、ンなもん一語だって出て来やしませんよ。中には直観的であることを、単なる思慮の欠如と勘違いしている人も見受けられます。
考えることといっても、”クヨクヨ”思い煩ったり、”ああだこうだ”の屁理屈とか多様な表れが有りますが、ある種のスピ界隈でまるで排除すべきもののように語られるのは、全く偏った、不当な観方という他ありません。
私も例えば、”現臨というものは思考を超えたところで触れられる…”何度ども述べたりしていますが、それは超えられるものであって、超えねばならない、ものとは言ってません。いいやこの現臨というもの、神の恩寵…そうしたものとの出会いも思考、マインドという”情報の運び屋さん”あってのものと言っていいでしょう。
思考もまた天与の、持ち前のものであり、否定される理由などある訳がありません。
ただ、それは内臓機能と違って、随意に自由意志で動かすことが出来るということで、取扱い方如何によっては我々にプラス、マイナスに分かれてくる側面もあるということなのですね。
「カタカムナのウタヒ」という一寸やそっとでは語れないような、数万年前の超古代人の直観哲理?物理?を伝えている古文献によれば、”考える”という事は”神帰る”という事につながるのだそうです。カムカエルからカンガエルに転じたとのこと。
現代人には考えるというと、思考が出てくる、あるいは出そう、といった外向きの意識的働きのように感じられますが、このヒビキには内向きな引き込んでいくような思念が感じられます。
(カムといっても、この場合”神”なる漢字の存在しない時代の話なので、今日我々がアレコレとイメージしているカミサマとは違うヒビキなのかも知れませんが、とにかくそれは我々が考える以前にある大本のハタラキ的なものとしか言いようのないものである…と、少なくとも私は身に覚えているものですが…。誰だって分かっていることでしょ?)
それはそもそものこの大脳皮質による思念にはこうした源、出どころが有るという事なのです。
これをつないでいるのが意識と言えるでしょうか。
この生きたハタラキに根差した思念、思考…それは当然のごとく生き生きとしたものとなります。
私が考えるという場合、それは勿論頭の中の雑音のなすがままになっていたり、知識というガラクタをもてあそんでいたり、悪知恵を働かせて、何かをたくらんだりしていることでもあります。
しかし、それは内向きに一先ずあの照明に照らされたり、”神棚に預けたり(心象に委ねるというのがこのニュアンスです)”、”練られてみる”…ただ一端”内モード”にしてみる、というようなことでもあるのです。(こういう事はいつの間にか身に覚えるようになったのです)
それはしかし、言語矛盾ですが、考えているようで、考えていない…ポカンとしているだけでもあります。そしてどっからか生き生きとしたアイデアがボタンと…(私はこれを神棚からボタモチと言っています)
この思考の源が分からず、疎かにすると、思考の暴走を許してしまうか、思考の呪縛に雁字搦めになるかしてしまうのです。
そしてスピ界隈には数多の未精錬な予言、前世談、陰謀論などが流布され続けているのです。
思慮がトンでしまっているか、頭でっかちになっているかどっちかという感じです。
思考、マインドはそれ自体悪いものじゃないし、考えられたストーリーも苦しみばかりである訳ありません。…源を離れて独り歩きするのが問題なのです。
ある種のスピ教師も偏った事ばかり言ってないで、少しは考えて欲しいものです…。














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悲しき巨人獣

2016-07-18 12:54:25 | 映画・音楽など
このところ、ヒマが有るとネットでB級映画~大体がホラー、SF~ばかり観ています。
昔、テレビで観たもの、初めて観るもの色々ですが、こういうのは寝っころながら気楽に観れるのがいいですね。
B級だからと侮ってはいけません。B級映画の帝王ロジャー・コーマンのE.A.ポー・シリーズなどB級とは思えない格調が有ります。(名優ヴィンセント・プライスの起用が大きい。まるでシェークスピア劇のようだ)
「叫ぶ頭蓋骨=The Screaming Skull」小6の頃、テレビでゾクゾクしながら観た正統ホラー。水木しげるさんもマンガで描いていました。
これらはいずれも50,60年代低予算映画ばかり量産していたAIPという米の映画会社の制作なのですが、この中で私がどうしても忘れられない作品が有ります。

「戦慄!プルトニウム人間=The Amazing Colossal Man」(57年。バート・I・ゴードン監督)
核爆弾の実験地に、なぜかセスナ機が墜落した! 炎上は免れ操縦士はまだ生存しているらしい…しかし、爆弾炸裂の時間が刻一刻と迫っている! そこへ何と勇敢にも救出に乗り出そうという英雄が現れた!グレン大佐です。しかし、無情にも爆弾は作動してしまい、大佐は被爆してしまうのです。
しかし…奇跡的に一命はとりとめ、火傷のダメージもあまり残っていないようです。大佐の英雄的行為も称賛され、献身的な婚約者とも幸せなひと時を送れる…と思ったのもつかの間…運命は思いもよらぬ方向に動いていく…放射能の影響で大佐の人体に突然変異による巨大化現象が現れ始めたのです。
自分を奇異な目で見ている周囲の反応…大佐の苦悩の日々が続く…しかし、それも身体の巨大化の進行と共に、消えて行く…人間的な理性がマヒし、徐々に凶暴化して行ったからです。又身体の異常な変化と心臓機能とのバランスが悪く、このままだと死に至るという…そして、ついに周囲の心配をよそに身長も数十mに達して、モンスターと化した大佐は軍の施設から脱走、ラスベガスの町へと向かった…。
映画館を襲うのですが、そこで上映されていたのは、放射能で人体が縮小してしまう人間の悲劇を描いた「縮みゆく人間」!…しかーし、何というブラックジョークだろう…観客はさぞ、多重混乱で頭がぐちゃぐちゃになってしまったことだろう…
やがて老医師の研究によって巨大化を抑制する薬が開発され、巨大な注射器を大人数で”せーの”とばかりに巨人グレン大佐の足にブチ込んだのですが、巨人は”何をしやがる!”と逆上、そしてなんと大注射器をその老医師めがけて、数十mの高さからダーツを投げ降ろすみたいに”エイヤッ!”とブスリ…なんというコントロールの良さであろう!
この蛮行によって、ついにもしもの場合にと待機していた、軍の砲弾を浴びてしまう事になってしまいました。哀れにもダムから落下して川の急流に消えて行ったグレン…

私が強くこの映画で感じたもの、それは”不条理”の一語です。グレン大佐は美しくも勇敢な英雄でした。しかし、その代償が突然変異のモンスター…これでもか、これでもかと悲劇的な運命にもてあそばれ、ラストまでずっと救いがありません。それでも私が後味にどこか美しさを感じるのは、この種の映画では大概モンスターに”キャーッ”と襲われるヒロインの役割が、ずっと献身的な女性として描かれているためかと思います。それでもやはり悪夢を見ているように不条理です。
もしかしたら制作者は”核”というものが不条理なものだと言いたかったのかもしれません。
尚、この作品の翌58年には続編「巨人獣=War Of The Colossal Beast」が作られ、何故か顔半分が崩壊した姿で生きていたグレン大佐が又暴れ出すのですが、最後は献身的な婚約者の説得で正気に返ったグレンは、運命をはかなんで高圧線に触れて自殺してしまうのでした。やはり救いは無かった!
小4の頃、今は無き少年画報(月間マンガ雑誌)の怪物特集で紹介されていた巨人獣を初めて見た時、”巨人獣?…巨人と怪獣の合体?こりゃ、すげー”と思ったものですが、こんな悲しいモンスターだったとは知りませんでした。
そう言えば…生まれて初めて核の恐怖を知ったのもその頃なのでした…。
核…もっとも不条理なモンスター…







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忘れじのエンリコ・マシアス

2016-07-17 12:20:24 | 映画・音楽など
今度はリゾート地のニースで…フランスのテロ事件は、もはや対岸の火とは言えなくなってきた感があります。先日の英国のEU離脱の背景には英国民の民族排斥感情が有ったといいますが、この負の連鎖はどこまで続くのでしょうか?
30年くらい前、ワールド・ミュージックのブームが世界的に広まりましたが、フランスは戦前から(当時はそういう言葉は無かったでしたが…)ワールド・ミュージックの発信地でした。ルンバ(キューバ音楽)、タンゴ、ハワイアン…これらを世界に先駆けて受容し、文字通りポピュラーな音楽として定着させたのです。これは同国民のエキゾチックなものへの好み、多民族と共存する寛容性が有ったことが伺えます。「音楽に国境は無い」などと言いますが、私は少なくとも音楽などを通じてでも寛容の精神が広まって欲しいと願っています。

ところで、エンリコ・マシアスという歌手を御存知でしょうか?
何枚もLPが紹介され、何度も来日しているので、60,70年代のシャンソン・ファンは勿論、広くポピュラー音楽を愛好していた方ならお馴染みのことと思います。もう忘れられた歌手という感じになってしまったのでしょうか?私は忘れてなどいない!…というか知らなかった!
私はかなり目敏い音楽マニアでして、76年頃にはシャンソンにも触手を伸ばして?いたのですが、うかつにも名前のみ知っていたものの、ノーマークなのでした。岸洋子さんがカヴァーヒットさせた「恋心」という曲は、リアルタイムで聴いていましたが、これがマシアスのオリジナルだと知ったのは、遅まきながら4年くらい前でした。
「L‘Amour, Cest Pour Rien」岸バージョンは和製シャンソンという感じでしたが、これは地中海風?スパニッシュ風?という感じのタンゴです。原題は”愛は何ものにも代えられない”というのだそうです。
マシアスの曲で我が国で最も知られているのは、これと私も耳馴染みの有る「想い出のソレンツアーラ=Solenzara」でしょう。これはボレロのリズム。(嬉しいことに、巷では超マイナーなタンゴとボレロこそ、わが音楽館では主流なのです!この二曲はしっかりカラオケでマスターしたぞい!)
この他、先日物故した作詞家永六輔さんの代表作「遠くへ行きたい=Ma Derniere Chance」も「私の最後のチャンス」と内容を変えてフランス語で歌っています。
彼は日本では大雑把にシャンソン歌手として紹介されていますが、それは単にフランスに帰化して活躍していただけの理由で、このように実際はとてもジャンル分けなど困難な、それこそワールド・ミュージックを体現しているようなユニークな歌手だったのです。
これは間違いなく、彼の複雑な生まれ育った環境から来ているものです。
フランス領だった、アフリカ北部のアルジェリア生まれ。アラブの影響が色濃い国ですが、彼は実はユダヤ人…それもスペインのアンダルシア地方のアラブ系ユダヤ人なのです!
こんなわけで「イスラエルの太陽」はじめユダヤ人としての感情を表した内容の曲も歌われる事は、彼にしたら至極当たり前のことでしょう。
このため、アラブ系の強い国ではコンサートをボイコットされるなどの憂き目にも遭っています。
だが、ユダヤの音楽はよくわかりませんが、私には彼の達者なギター演奏、曲想からハッキリとアラブ、オリエンタルなテイストが感じられます。
歌唱はそれでいてあまりクセは無く、カラッとした汎地中海ヨーロッパ風(要するにシャンソン、カンツォーネファンには馴染みのある…という感じ)なのです。
彼は親ユダヤなのでしょうが、反アラブである訳が有りません。
正直、私にはこのような複雑な民族、宗教などが絡み合った背景をもった人たちの心情が如何なるものか、理解出来ません。
でも、少なくとも私には、彼の歌からはそれらを超えて人生の哀感、喜びというものは切々と伝わってきます。

  「オリエンタル=L‘Oriental」

  皆は僕をこう呼ぶ”東洋人”と
  運命的なまなざしの若者だと…ヘイ…ヘイ…
  皆は僕をこう呼ぶ”オリエンタル”と
  僕はセンチメンタルなだけなのに
  僕が変わった事をするわけでもないのに
  ・・・・
  僕のハートはかくれんぼしてる
  辛くてメチャメチャになりそうなときは
  過ぎ行く日々と憂鬱を歌うんだ
  ・・・・
  悲しい歌、楽しい歌
  僕は気の向くままに歌う
  僕を夢中にさせるのは音楽だ












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陰謀論の幻想

2016-07-14 20:05:14 | スピリチュアル?
私が5,6歳の頃、周りの世界に現実的な手ごたえが感じられなくなって、夢かウソの世界のように思え、私以外の全ての人間は私を欺いているんじゃないか?と思った事が有ります。
小学4年の頃、私は初めてこの世界が核の恐怖にさらされていることを知り、寝られないくらい戦慄を覚えました。
”皆、こんな世の中で、よく平然として生きていられるものだ! 一刻も早く地下基地(シェルター)を作って逃げよう!”と本気で家族に訴えたものです。それを聞いて父が笑っていたのを見て、私は感じました。”皆オカシイ、どうかしている…狂っているんだ…やはり僕は夢を見ているんだろうか…”
以来私はどっかで”世の中が狂っているのか、僕が狂っているのか、どっちかなのだ…”と思いながら生きてきました。
生来からしてこんな風なので、所謂陰謀論というものに接しても、面白い話以上には感じません。そしていつも何かをスケープゴートに仕立てて趣味の悪い話だ、とも…
何時の時代にも、この陰謀論に熱を上げている人も居て、”事の真偽を見極めましょう…”などと宣わっていますが、そんなこと見極められる訳ないじゃないですか!(笑)
 少なくともそう言っている当人には無理でしょう…その、ほとんどの情報というのは誰かさんの説、どっかのソースの受け売りに過ぎないのです。つまり”出がらし”の情報をもっともらしく言い立てているだけなのです。こないだなど”闇の勢力の黒幕はフリーメーソン!”なんて、私などとっくの昔に賞味期限切れと思っていたものを見つけました(笑)
(ザ・デストロイヤーやハーリー・レイスが聞いたら、四の字固めやブレーン・バスターどころでは済まないだろう…こういう人たちの言い方は”プロレスは八百長だ!騙されるな!”と真顔で訴えている人に似ています。)
フリーメーソン…”神智学、バハイ、大本、紅卍…一体、どこでリンクしているのかメーソンてーのは!…スローガンそっくりに世界平和を熱心に唱えている一派がそうじゃないのか?”といった具合に、それは表になり、裏になりWeb世界のように引っかかってくるもので、”闇の…”何て自分の思い込みだけの一面観だけで捉えてしまうというのは、あまりに単純過ぎやしませんか?
要するに陰謀論の世界では、バーチャルな世界で、バーチャルな妄想に翻弄されるばかりなのです。
メーソンかイルミナティーかレプティリアンか知りませんが、もしかしたら陰謀の実態というのもあるのかもしれません。けれど、それが何であれ決めつけた言説というものは妄想の所産でしかないでしょう。ホントかどうかなど確かめようも無い、アヤフヤな話を信じ込むこと自体が妄想なのです!
見たままの、思ったままの世界、それ自体私はウソとも幻想とも言い切るつもりはありません。
見たままの個人というものがそうであるように…
ただ、そこにしか、見たままにしか真実は無い、という思い込みこそは幻想というべきです。
バーチャルな世界で、言葉に対する過信、盲信に陥ったように憶測の域を出ない情報に追従して、周囲に又拡散し続ける…まるでカルト宗教じゃありませんか!…真実を見抜いたつもりになっていても、その実は彼らこそが、マンマと陰謀にハマっているのではないですか?
これは”客観的事実こそが真実である”という幻想を抱いている現世意識そのままを映し出しているとも言えます。
もし、この幻想から解放されたければ、あなたは目覚めるしかないだろう…そこで動かしがたい現実に直面するしかないだろう…
そうすれば、見たまま、思われたままが真実でない、という事に気付くことでしょう。
しか―し…ご注意あれ!…私はここで真実でない事が分かって、真実に気付くことが出来る…と言いたいようで、実はそういうことを言っている訳じゃありません。
この世では求むべくもないようなリアルなものを目の当たりにする、と言っているだけです。
これは思いを超えたところからの照明(イルミネーション!)とも言えます。
そして、この光にあってこそ、世界も人生もリアルなものとなり、自分自身で真実を見極められること、自分の目、悟性というもの自体がアヤフヤなものだ、というところに真実性が感じられて来ます。
これには逆説的ですが、全信頼を以て自己の内なるものに向き合う必要が有ります。

ワンワールド…世界は一つになろうとしている…これは我々にとって望むべき事なのか、悪夢の現実化なのか?
私には、このある側面は、彼の世界を映し出しているようにも感じられます。ただ目下この側面は人間の世界というより、アリかハチの世界に近いものがありますが…
どちらを望むかは、全くもってあなた次第です!
















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ハタラキと祈り

2016-07-13 16:04:44 | 現臨、ハタラキ
愛、意識、ハタラキ…何度も触れているこのブログの基調的なワードです。
このうち、ハタラキというのは、働き者の皆さん?にも馴染みの無いワードでしょうが、意味は分からずともこれ無しには、誰も生きちゃおれない、そもそもの命と直結したものです。
気、聖霊、恩寵、ナントカ・パワー…全部がこのものの側面を言い表しているようですが、各々の言葉の響きには、あるイメージが付きまとうような面も感じられるので、”生きたもの、動くもの”という通念を感じやすい、という事でそういっているまでです。特別な意味合いなど何もありません。
これほど、重要なもので、流通普遍的なものであるにも関わらず、巷には決まった言葉が無いのです!…これはホントにどうかしてる!…陰謀か?…この辺に転倒した世の中の現状が表れているようです。
今のスピ界隈には、”覚醒して、すべてが一つになりました…”、”最初から悟っていたのです…”といった後出しじゃんけんどころでない、”勝ちゃいましたじゃんけん”まがいの言葉や、ユーザーに対しては、それに預かるには”こだわりを捨てればいいんです…”とか、”全てを任せればいいんです…”と出来りゃ苦労しないような、親身の無い言葉ばかりが飛び交っています。
つまりは、このもの無くしてなりようの無い、このハタラキの消息がどっかへ飛んじゃっているのですね。
だから”平凡な人間が覚者になった、とかあなたも覚者になれる…”なんて話が後を絶たないのです。
ただ、ハタラくものがあった、ということであって、どこまでもただの人はただの人に過ぎないのです!
この事を疎かにしているのはただのおバカなのです!
とはいえ、これがハタラく時、諸々の物理的順序”何が、どうなって、こうなった…”という成り行きが省かれるように感じる事の多いのも事実です。
それでも、”これがハタラいている、このものが有る”という事実に変わりはありません。
これはなんてことは無い、現在の物理科学の範疇を超えている、というだけの話です。

親身が無いということでしたら、私も例えばハタラキを感じられる方法などについてはあまり触れてません。
これは、”それを感じられない人間など生きちゃいない!”と言ったらそれまでなのですが、”もっと生き生きと、深く感じるには…”という事になると…私は敢えて言えば”祈ること”だとしか言いようがありません!
しかし、祈りというのは、~のための方法の類といった意味じゃありません。
行、形としての祈りというよりも、祈り心と言ってもいいのです。
祈り心の無いところに、ハタラキの息吹は無い…祈りは、ハタラキの現前への”へりくだり”です。
これは倫理の問題じゃありません。”そうしなければいけない”ものじゃなく、知られざる物理法則みたいなものです。
生けるハタラキに預かるという事は表側の自分が引っ込んで、裏側の現臨が表に顕わになるという事に他ならないからです。
祈りは又、意識の変容に伴う、心身のバランス感覚を失ったりするなどの危険な状態に対する強力な防御ともなるものです。(この事を甘く見ている向きが何と多いことでしょう! 思い上がりこそが危険の兆候です)
こういう事というのは、瞑想や祈りのやり方といった、形だけの方法を覚えてもしょうがないものです。
やり方というよりも、ハタラキを覚えた時、自ずと祈り心が芽生えてくるものです。
それはこちら側とあちら側との愛の相関と言ってもいいでしょう。
私がそういうものに触れようとしないのも、こういう理由からでもあるのです。
生けるハタラキは捉えようとすれば遠退き、放つことで近づく…(タオですか…)
祈りとは、この逆説的方法論なのです。










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