私がこうしてブログを書いている意味、それはとても一口では言えないものが有ります。
ま、ほとんどが自己満足なんですけど…
書いていることで、長―い間、忘れていた過去の記憶が突然よみがえってきたり、言葉に表せなかったことが、ポンと文章として出てきたり、気付きを与えられたり…
肉体的な衰えは隠せないですが、精神面で若返って来たのも確かな事です。
要するに何でブログ書いているのか、と言ったら老化の防止のためでもあるのです(笑)
どうして、そういうことになるのか?…勿論考えているからですよ。
思考、マインドというのは、ある種のスピ界隈~ことに瞑想を重んじるもの~では仇敵のように扱われていますね。
直観派?を自認している人なんか、”私は考えてものを書いたり、言ったりなどしてないんですよ~”などとウソぶいたりしてますけど、何も考えてなかったら、ンなもん一語だって出て来やしませんよ。中には直観的であることを、単なる思慮の欠如と勘違いしている人も見受けられます。
考えることといっても、”クヨクヨ”思い煩ったり、”ああだこうだ”の屁理屈とか多様な表れが有りますが、ある種のスピ界隈でまるで排除すべきもののように語られるのは、全く偏った、不当な観方という他ありません。
私も例えば、”現臨というものは思考を超えたところで触れられる…”何度ども述べたりしていますが、それは超えられるものであって、超えねばならない、ものとは言ってません。いいやこの現臨というもの、神の恩寵…そうしたものとの出会いも思考、マインドという”情報の運び屋さん”あってのものと言っていいでしょう。
思考もまた天与の、持ち前のものであり、否定される理由などある訳がありません。
ただ、それは内臓機能と違って、随意に自由意志で動かすことが出来るということで、取扱い方如何によっては我々にプラス、マイナスに分かれてくる側面もあるということなのですね。
「カタカムナのウタヒ」という一寸やそっとでは語れないような、数万年前の超古代人の直観哲理?物理?を伝えている古文献によれば、”考える”という事は”神帰る”という事につながるのだそうです。カムカエルからカンガエルに転じたとのこと。
現代人には考えるというと、思考が出てくる、あるいは出そう、といった外向きの意識的働きのように感じられますが、このヒビキには内向きな引き込んでいくような思念が感じられます。
(カムといっても、この場合”神”なる漢字の存在しない時代の話なので、今日我々がアレコレとイメージしているカミサマとは違うヒビキなのかも知れませんが、とにかくそれは我々が考える以前にある大本のハタラキ的なものとしか言いようのないものである…と、少なくとも私は身に覚えているものですが…。誰だって分かっていることでしょ?)
それはそもそものこの大脳皮質による思念にはこうした源、出どころが有るという事なのです。
これをつないでいるのが意識と言えるでしょうか。
この生きたハタラキに根差した思念、思考…それは当然のごとく生き生きとしたものとなります。
私が考えるという場合、それは勿論頭の中の雑音のなすがままになっていたり、知識というガラクタをもてあそんでいたり、悪知恵を働かせて、何かをたくらんだりしていることでもあります。
しかし、それは内向きに一先ずあの照明に照らされたり、”神棚に預けたり(心象に委ねるというのがこのニュアンスです)”、”練られてみる”…ただ一端”内モード”にしてみる、というようなことでもあるのです。(こういう事はいつの間にか身に覚えるようになったのです)
それはしかし、言語矛盾ですが、考えているようで、考えていない…ポカンとしているだけでもあります。そしてどっからか生き生きとしたアイデアがボタンと…(私はこれを神棚からボタモチと言っています)
この思考の源が分からず、疎かにすると、思考の暴走を許してしまうか、思考の呪縛に雁字搦めになるかしてしまうのです。
そしてスピ界隈には数多の未精錬な予言、前世談、陰謀論などが流布され続けているのです。
思慮がトンでしまっているか、頭でっかちになっているかどっちかという感じです。
思考、マインドはそれ自体悪いものじゃないし、考えられたストーリーも苦しみばかりである訳ありません。…源を離れて独り歩きするのが問題なのです。
ある種のスピ教師も偏った事ばかり言ってないで、少しは考えて欲しいものです…。
ま、ほとんどが自己満足なんですけど…
書いていることで、長―い間、忘れていた過去の記憶が突然よみがえってきたり、言葉に表せなかったことが、ポンと文章として出てきたり、気付きを与えられたり…
肉体的な衰えは隠せないですが、精神面で若返って来たのも確かな事です。
要するに何でブログ書いているのか、と言ったら老化の防止のためでもあるのです(笑)
どうして、そういうことになるのか?…勿論考えているからですよ。
思考、マインドというのは、ある種のスピ界隈~ことに瞑想を重んじるもの~では仇敵のように扱われていますね。
直観派?を自認している人なんか、”私は考えてものを書いたり、言ったりなどしてないんですよ~”などとウソぶいたりしてますけど、何も考えてなかったら、ンなもん一語だって出て来やしませんよ。中には直観的であることを、単なる思慮の欠如と勘違いしている人も見受けられます。
考えることといっても、”クヨクヨ”思い煩ったり、”ああだこうだ”の屁理屈とか多様な表れが有りますが、ある種のスピ界隈でまるで排除すべきもののように語られるのは、全く偏った、不当な観方という他ありません。
私も例えば、”現臨というものは思考を超えたところで触れられる…”何度ども述べたりしていますが、それは超えられるものであって、超えねばならない、ものとは言ってません。いいやこの現臨というもの、神の恩寵…そうしたものとの出会いも思考、マインドという”情報の運び屋さん”あってのものと言っていいでしょう。
思考もまた天与の、持ち前のものであり、否定される理由などある訳がありません。
ただ、それは内臓機能と違って、随意に自由意志で動かすことが出来るということで、取扱い方如何によっては我々にプラス、マイナスに分かれてくる側面もあるということなのですね。
「カタカムナのウタヒ」という一寸やそっとでは語れないような、数万年前の超古代人の直観哲理?物理?を伝えている古文献によれば、”考える”という事は”神帰る”という事につながるのだそうです。カムカエルからカンガエルに転じたとのこと。
現代人には考えるというと、思考が出てくる、あるいは出そう、といった外向きの意識的働きのように感じられますが、このヒビキには内向きな引き込んでいくような思念が感じられます。
(カムといっても、この場合”神”なる漢字の存在しない時代の話なので、今日我々がアレコレとイメージしているカミサマとは違うヒビキなのかも知れませんが、とにかくそれは我々が考える以前にある大本のハタラキ的なものとしか言いようのないものである…と、少なくとも私は身に覚えているものですが…。誰だって分かっていることでしょ?)
それはそもそものこの大脳皮質による思念にはこうした源、出どころが有るという事なのです。
これをつないでいるのが意識と言えるでしょうか。
この生きたハタラキに根差した思念、思考…それは当然のごとく生き生きとしたものとなります。
私が考えるという場合、それは勿論頭の中の雑音のなすがままになっていたり、知識というガラクタをもてあそんでいたり、悪知恵を働かせて、何かをたくらんだりしていることでもあります。
しかし、それは内向きに一先ずあの照明に照らされたり、”神棚に預けたり(心象に委ねるというのがこのニュアンスです)”、”練られてみる”…ただ一端”内モード”にしてみる、というようなことでもあるのです。(こういう事はいつの間にか身に覚えるようになったのです)
それはしかし、言語矛盾ですが、考えているようで、考えていない…ポカンとしているだけでもあります。そしてどっからか生き生きとしたアイデアがボタンと…(私はこれを神棚からボタモチと言っています)
この思考の源が分からず、疎かにすると、思考の暴走を許してしまうか、思考の呪縛に雁字搦めになるかしてしまうのです。
そしてスピ界隈には数多の未精錬な予言、前世談、陰謀論などが流布され続けているのです。
思慮がトンでしまっているか、頭でっかちになっているかどっちかという感じです。
思考、マインドはそれ自体悪いものじゃないし、考えられたストーリーも苦しみばかりである訳ありません。…源を離れて独り歩きするのが問題なのです。
ある種のスピ教師も偏った事ばかり言ってないで、少しは考えて欲しいものです…。