人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

この世の終わり

2016-12-21 17:53:39 | 独語
ある教えを信じている者らは言う…

”神の国には悪も闇も無く、光一元の世界…
その世界が開かれる前に悪魔も闇の勢力も淘汰される…
それまでに霊的進化を遂げなければならないのだ”と…

彼らは光の勢力に属しているつもりなのだろうか?
その見えない霊団の存在をどうしてわかるのだろうか?
もし、ある教えでそのように語られているとしたら、
その見えない集団は見える集団の延長の上に存在しているのだろうか?
悪魔や闇の勢力というのは…
彼らの対抗勢力だとしたら…
おそらく向こうは向こうでこう言っているに違いない
”こっちの光の勢力はあっちの闇の勢力を阻止しなければならない…”と…
その日、来る日を誰か約束でもしているのだろうか?
その教えのメソッドに従ってさえいれば、大願成就に預かれるのだろうか?
一体何十年、同じことを言い続けているのだろうか?
その日、来る日まで?…それは、いつ?
理想世界、神の国がどんなものなのか、彼らは見ることが出来るのだろうか?
その世界はこの見える世界の延長の上に存在しているのだろうか?
見える世界はまだまだ進歩し続けるのだろうか?
留まるところを知らない文明の進歩、観念の肥大化…
しかし…何の前触れも無く、この世の終わりが来ることだって…
あるかもしれない…

その日来る日、太陽は輝くことは無い
見る世界はすべて失われる
自分の依りどころ、属するものは失われる
自分の立場…何が正しくて、何が真実で、何がそうでないか…
何も判断など出来ない
見えるものの延長にあるものは全て絶たれる
見ている自分も見られる客観も無く、
ただ、ここに在るものを受け容れるだけ…
思い描いていた世界の終焉…
次から次へ際限なく馳せては取り込まれる思い
他から背負いこんだ思い
思いの重い足かせ…
思いから解き放れる時
思いという障壁が無くなる…
遍く通る…普遍世界…
この世の終わりは…救いの日














































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神の国の胞衣

2016-12-18 14:08:43 | スピリチュアル
中国道院では、万有の真宰として至聖先天老祖(仮の名)を奉じているのですが、この老祖の真体とは、一つの”キ”(気にあらず)胞なのだそうです。
道院のお経では「一たび放てば万に弥(み)ち、万を収めて一に帰す」と、先天の一キが化して、陰陽に分かれ、天地の生成流転して行く様を伝え、道を修することにより、元の一に帰ることを伝えているのです。
出口王仁三郎聖師は、「霊界物語・天祥地瑞編72巻」の中で「太虚中ただ一点の(ほち)現れて 至大天界生まれ給へり」と、上記の道院の教説と相通じたような、天地の生成の過程を記していますが、私はキ砲というものにこの”ほち”のようなものを連想してしまいます。
聖師は又、霊界物語48巻では「全ての人間の現界に生まれ来るは天人の胞衣(えな)の如きものである」と述べられていますが、胞衣とは胎児を包む衣、というより、その命の原型、雛形です。
尚も別のところでは「人間は言わば小宇宙で、人体の中に霊界も自然界も存在し、内分は霊界に、外分は自然界に相応する」とも…
これはまさに、西欧神秘学で言い伝えられる「人間はミクロコスモス(小宇宙)であり、マクロコスモス(大宇宙)と照応している」事を言い表しているのです。

私が、普遍調和世界を垣間見た時のことですが(例によって言葉にし難いものですが…)、それは果てしの無い虚空に浮かんでいるという感じのものではありませんでした。
これが実に輪郭の無い胞衣のようなものに包まれている感じなのでした。(そういうものを実際に見てる訳ではありませんが…)
それを強く感じさせたものは、ある音なき音のようなもので伝わってくる胎動というか、律動なのです。
そしてこのものが、生きている…生成してやまないもの、というものを強烈に感じさせるものなのでした。
そして何より、命の親と一体になっている、という事です。
あれは一体、どういう事なのでしょうか? 実感したことを端的に言えば”自分の中も外もすべて愛で溢れている”としか言いようが有りません。
人はよく愛というものの表れについて、”愛に包まれる”と言う表現をしますが、この身心、意識に目の当たりに感じさせるものとして、”包まれる”という表現がピッタリきます。
この衣というか幕、バリアーの如きものについて、もう一つ感じたことは、それが外界の諸々の雑音(私にこの事が起きたのは雑踏の真っただ中でした〉、あるいは自分自身から発する雑念などを完全に遮断していた、という事も付け加えておきます。
精神世界、ことに瞑想を重んじる場などでは、よく”神は内に居ます”という事を言われます。
どうも、内側という事ばかり言っていて、外側の事が蔑ろにされがちのように感じてしまうのですが、これは自分の体の内とか外とか、そういう単純な事を言っている訳じゃありませんで、あくまで受ける感覚のことなのですが、意識が現前にある時、内も外も無い…相即している、というのが、本当ではないでしょうか?(5/21の過去記事「内なるもの、外なるもの」参照)
ただ、自己の外として感じられることは、この客観的現実というものと相接している、とも言えるでしょう。
私がこうしたことを書かされているのは、最近どうも、この内側とか外側とかの境界が、ボヤケ始めているのを感じているからです。
意識が現前に向けられるたびに、ジンジンとあの”お照らし”を感じてきます。
そして…”こうなっていた筈”の客観世界というものにそれが照らされて…ある覆いがはがされると同時に、愛の衣に包まれて来るのを感じます。
神の国、普遍調和世界の実現とは、この客観世界が、その世界に化していく事に他ならないでしょう。
これは人間の意識の変容と結びついているのは言うまでもありません。
一個人の内なる神の目覚めは、このこと自体が神の国の胞衣となる…それは全く一個人に帰してしまうものじゃないのです!
私が垣間見たものは神の国の原型、青写真だったのでしょうか…
「神は人間の内に生まれ、人間は神の内に生まれる」(ベルジャーエフ)







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そのもの、それ自体

2016-12-17 12:30:22 | 哲学・思想
私がどうにも言い表すのに窮してしまうのに、”そのもの”とか〝それ自体”としか表現出来ないものが有ります。
こればっかりは絶対に表現のしようのないものなんだからしょうがないのです。
これはしばしばと言い表わして、一応分かったつもりのものにされてきました。
帰着も決着も永遠につかないものにも関わらず…
その事が又、数々のそれぞれの色あい、思惑などで修飾され、様々な決めつけた定義などが生まれ、ご存じのように収拾のつかない混乱の種ともなっているのです。
これは取りも直さず、それ自体なる、そのものは有識によって捉えられる術が無い、ということを言い表しています。
そして安易に捉えようとすることで、かえって自らを何らかのトラワレの身に置いてしまう事になるのもよく見られることです。これは、絶対的なものを有識に持ち込むことで、相対地獄に落ちてしまう、という事を物語っています。
もっともそのものであるものは、もっともそうあるべきでないものになり得るのです!
そのものというものは、それに触れた時の実感を、ある形容で言い表すことしか出来ません。
この時にOO自体という表現が許されるかと思います。
例えば、”そのものは愛それ自体である”とか…
人は”愛する”とか、”愛される”とかその対象との関係を主体と客体にすることで愛というものを表現します。
だがここで言う、愛それ自体というものは全く、そういうものではありません!
愛する私も、愛される対象のあなたも無い…愛そのものがあるのです!だからそれ自体としか言い得ないのです。
では、そのものというものは、愛なのか? いや、そうじゃない、幸福、平安、智、真理…形容される言葉には際限がありません。
今掲げた言葉には、”こうすれば幸福になれる、平安に導かれる、真理に到達出来る…”と(使い古された表現ですが)ここに無い、ことを前提に語られるものですが、それらは全て現前しているのです。
しかも愛、幸福、真理というものは別個にあるものでもありません。そのものはそれらのどれでも無いが、ことごとくそのものであるものです。
又、人は”幸福とは?”とか、その示す意味付けをしようとするものです。
だが、それ自体への意味づけは意味をなしません!
とは言え、人間のサガというものはどこまでも意味とか意義とかを追及したくなるものですね。
しかし、よしんば例えば人生の意味、意義、目的が分かったところで、自己の意味が、神の意味が分かったところで、物心ついた時以来の不十全感は何一つ解消されることは無いでしょう。
(何かの教えを受け容れ、信じたとしても、一部の人たちの間でそうだとされている真理に迎合して、一応の手打ちにした、というだけのことじゃないですか?…)
こういう事というのはホントは、覚醒体験などのことを持ち出さなくとも誰でも知っていることじゃありませんか?(何もしなくとも生かされているだけで、幸福でいられる人は知っているはずです)
隠さなくっても分かっています!
あなたの物心ついてからの自己や人生や世界に取り巻いている、モヤモヤした不十全感というものが、そのもののことを知らせているのではないですか?何かを目差し、求め、探そうとしても、決して目の当たりには出来ない、物それ自体には至り得ない…
この事を受け容れること、認めることこの事自体が現前を受け容れる、という事に他なりません。そこから通気口が開かれます。
不十全感とは我々自身から来るばかりでなく、そのものが解き放たれようとする促しなのかも知れません。
自己のことも、人生のことも、世界のことも、そのもの…それ自体の御顕れが、それ自体の成就を成すことでしょう…。
我々はただ祈りを以て、そのものに捉えられ、その光に照らされ、射抜かれるばかりです…。








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裏の畑でポチが鳴く

2016-12-16 18:05:18 | 独語
この世には数多の真理に至るという精神的な教え、やり方というものがある
一体何がホンモノで、何がエセなのか
それともすべてホンモノで、すべてエセなのか…
この界隈には無数の”唯一正しいもの”で溢れかえっている
風向きか、コインの表か裏に転がった方で、正しい道を選べることが出来るんじゃないか…
こういうごった煮の中で、一つだけの正しい道を選び取った瞬間、
輪郭を持たない一つの体から何かが切り取られる…
自体で生きている有機体から何かが分離する…
言葉、形に表せないものを、言葉、形に置換した途端、
”セメント付けはかなワン…”と、”ポチ”はスルリと逃げて行く…
これは一体何の断片だろうか…何の部品なのだろうか…ポチを象ったグッズなのだろうか…
断片に執した人たちは、この教え、このやり方を一人でも多くの人に広めようと躍起になっている
しかし…命の無いポチは”ONE”と鳴いてはくれない…

僕は一見、断片のように見える道に接していた時、
胸の中でポチが鳴いたのを感じた…
ポチは僕の心の座で鳴いていたのだ…
”ここ掘れ!ワンワン”と…
この鳴き声によって、断片的なものは心の座とつながっていた…
心の座…そこには言葉、形で表せない神宝が秘匿されている…
それは心象によって描かれるもの…
無暗に言い表さないで、心象に留めておくことで、
命の枯渇につながる流出から守られる
まして、決めつけた言葉でセメントで固めようものなら命取りとなる…
その一部は時と場と人を機に表出されることもあるが、
心の座から離れるや、断片となって地に落ちてしまう…
心の座にあの光が稲妻のように射抜き、神秘の扉が開かれるや、
神宝が開示される…

あなたと私の心の座のことは、その他大勢への伝道では決して伝わらない
言葉、形を超えたものによってしか…共感、共鳴、共振…
心の座を持たないものはいない…すべてとつながっている…
しかし…その他の誰かでない、あなたの心の座が揺さぶられなければならない…
あなたと私しか知らないようなものこそが、すべてのものなのだ
神宝は、私的であって、共有財産…
”ハチ公像のようにはなりたくないワン”と、ポチはオリから逃げて流離い続ける…
ポチの一声を求める人を探して…
心の座を求めて…
今日もどこかの裏の畑でポチが鳴く…












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一自由人のたわごと

2016-12-15 00:03:34 | 雑感
自分で言うのもおかしいですが、私の考え方とか生き方というものは、誰にもマネ出来ないんじゃないか、と思います。
”こんなヘンな人間のマネなど誰もやりっこない?”…そうですね! 言うべきことは、むしろ…マネしちゃいけない…オカシクなっても知りません!
私はここで”こーゆー事を信じましょう…”とか”こーゆー生き方をしましょう…”なんてことを主張するつもりは毛頭ありません! ここで書いていることはあくまでも一ヘン人の一つのサンプルに過ぎないのです。
強いて言いたいことは、皆さん一人一人(どんなヘン人が隠れているか分かったもんじゃないですが)の自由な感性で、自由にとって頂き、何がしかの共感出来るものが伝われば、と思っているのです。
だって、あなたも私も自由に自分の人生を謳歌しているのですからね…。

いつも読まれている方にはお分かりのように、このブログは神道、仏教、キリスト教…あらゆる宗教、最近のスピ界に関するもの…もう、実にランダムに取り上げています。中には普通、常識の世界では認知されていないような、自動書記による神示とかオカルトと言った分類で呼ばれるものに関したことにも触れています。
一方では、そうした方面を煙たがっている向きも多い、知識層が好んで読んでいるような哲学についても触れています。(ブログのジャンルは一応哲学・思想です)
こういうごった煮状態というのは、全く虚飾の無い、ありのままの私の精神の趣きを伝えているまでなのです。これはもしかして私が感じている以上に見てる人には混乱を招くものなのかも知れませんが、そうなっているんだから仕方が有りません。
モ少し、読む人のことも考えて整合性を持たした方がいいのではないか、とも思いましたが、実際に惹かれてきたもの、啓発を受けたものについてありのままのことを書こう…”という風に思いが至り、とても自由な気持ちになれました。ありのままというのは自由なんです。これは私的には当たり前の話に過ぎないのですが…
私は、何度も触れているようにオカルト的なもの自体を否定したりしません。
その周辺で取り上げられる死後の世界であるとか、前世など見えない世界のことは本来、否定も肯定も出来ないものであるはずです。
科学性というモノザシを以て否定したり、肯定したりするというのも偏っている、と言わざるを得ません。
私は偏ったある種のスピ、オカルト信仰からも、頭ごなしの否定派からも、科学一辺倒信仰からも自由でいたいのです。
逆に言うと、だからこそ自由にそれらに親しむことが出来るのです。
宗教という事でも、勿論特定の信仰は持ち合わせていませんが、宗教そのものも否定も肯定もしません。
時に信仰することと、哲学することは相容れなくなったりしますが、私はどちらからも自由です。
だからこそ、自由にあらゆる宗教にも、哲学にも親しむことが出来るのです。
ただし、カルト、洗脳集団などについては、そこでは自由な感性というものがスポイルされかねないので、お付き合い出来かねます!
狂信というものは、観念の奴隷以外の何物でも有りません。
私はそうした精神の牢獄に入りかけた事が有るので、自由の尊さを身に染みて感じているのです。
自由であるとは、生き生きとした生命がハタライていることです。
どういうものにしろ、凝り固まった精神、定見というものは、人間本来の自由な生命の発露を塞ぎ、フタ閉めしてしまいます。
ただ、かく言う私も、そうした捉われた、押しつけがましい言辞などに反応して、敵愾心を燃やしてしまう、というある意味自由になれないサガも持ち合わせてはいますが…(ある種のトラウマかも知れません)
きっと、そのように捉われたことを表し、見せている事も…自由にそうさせられているのでしょう…
私もそうさせられているように…
私は自(みずか)らは、自由にはなれないのです。
あのすべてを照らし、射抜いている光によって、そう自(おのずか)らなるものに由らしめられているのです…。








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