人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

他者性と超越性

2017-05-21 10:48:30 | 哲学・思想
恩寵、上よりの力…名称はどうあれ、神的なものというものは、思われた自己、思考を超えている、という事は何回でも強調したいと思います。
チッポケな私からすれば、超越的なものということです。
他者性というものは、この超越性と観ることも出来るでしょう。
他者性というものが無ければ、明け渡しというものは出てこないのです。
このことを曖昧なままにしていると、思われたままの私が悟るとか、神になるとか、錯覚に陥ってしまうのです。又、観念で分かったつもりになったりとか…もし、エンライト、光に預かりたいのであれば、有り様は人それぞれですが、明け渡し、回心という関門は誰もが通らなければならないでしょう。
そこで、思われたままの自己という基盤は崩され、自己意志というものの限界性が示されるなど、それまでの思われたままの人生に一つのピリオドがもたらされるでしょう。
そこで精神的探究は終わるかも知れないし、終らないかも知れません。
人それぞれの魂の、あるいはガイダンスの意向次第でしょう(どっちにしろ自己意志、思念を超えた領域の話であるのは言うまでもありません)。ただ、これだけは言えます!
”創造、生成は留まることなく無限に続く…”

ところで、明け渡したらどうなるのか?…それはまさにその意識の変容の渦中にある場合のことですが、それも感じ方、観方は人それぞれでしょうけど、”ワンネスとか普遍的なものと一つになる…”という感想は、多くの人が報告していますね。
これを非二元な目覚めと観るか、どうかということも分かれるところですが、個我性というものが無くなったようになる、という事は共通していることかと思われます。
これをある人は、”観照する自己”だけになるとか言っているのですが…”エッ…観照する自己が居るの?”
こういう描写というのは、言うまでも無く言葉を超えているものなので、微妙な言い回しとならざるを得ないので、私は別にツッコミを入れるつもりも無いのですが、私が感じたのは、この言葉から来るニュアンスとは少しく違うものが有ります。
この自己というのは自意識を持った自己なのか? うっすらと事態に気付いている、そういう自意識というものは有ります。
でも、それはその事態に対しては全くの無力であり、どうしようも出来得ません。自意識で観照することも出来ないのです。
ただもう”アハ”とその事態を傍観しているしかないのです。この自己はこの変容にはなんらの働きかけが出来ないのです。ま、観てるだけには違いないのですが、これを観照と言っていいものだろうか?
だが…このあたかも観客席で傍観者となって、”アフン”としているだけのチッポケな自己を含め、全ては観られていたのです。
つまり全てを見通す観照というものは有った…というよりこの事態の全てはこの超自然的光によっていたのです。
それは自意識というものとは全く違います。言うなれば超越意識か…
私はこれを”自分を見つめる”などの自己観照と結び付けられるものと区別して”照明”と呼んでいます。
(あるいは、先の”観照する自己”というのはこのことなのでしょうか?)
そしてこれは実に語るだに微妙な事なのですが、辛うじて保たれているこの自意識を持った自己は、あたかも他者として観られている感じになってしまったのです。こっちで向こうにあると思っていたものが真の主体になった…”あっちがこっちに、こっちがあっちに”という具合です。
これを日常に戻った自己から観たら、この有り様を”一つになっている”と感じられるものであれ、私にはやはりどこまでもその主体は他者なのです。
というのも、何故そうなるか分からないのですが、この私が”一者と一つ”と感じているよりも、”他者なる御方と共にある、その中にある”と感じていることで一層自分自身で居られるからです。おそらく照らされ、浸透してくる感じでそうなるのでしょう。
何よりもそのことで自意識に捉われなくなります。
私が何ものかになろうとすることから離れられるのです。

今日も日の照らしはいよいよ強く…






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現代の神秘家モーリス・ズンデル

2017-05-19 16:35:32 | 人生の裏側の図書室
「真の人間が見いだされるところに神は見いだされる」モーリス・ズンデル「慎ましい現存」(福岡カルメル会刊・自主出版)
「”お前は私だ” これこそ、私のうちに書かれた神の署名です」
同「沈黙に聴く―現代の神秘家モーリス・ズンデルの人と霊性」(女子パウロ会刊)

私がブログを書き始めてから変わった事といえば、それまでの数年間、なりを潜めていた読書熱がぶり返したことが挙げられます。
10年ほど前、ニサルガダッタ・マハラジなどの非二元関係の本を読んで、”こういう直接的な道というのは、頭で理解したってしょうがない、読書などで知的に分かろうとすることから離れる必要が有る…”と感じ、あまり書物を求めなくなったのです。
ずっと以前に夢中になって読んでいた宗教書も読み返してみると、どうも観念に浮いている気がして何だか色褪せて感じられたものです。
この時分に書店で、ふと手に取って読んでみたのがスイス系フランス人神父モーリス・ズンデルの言葉を集めた「慎ましい現存」という書物でした。
インド、東洋系が主流?のスピ界にあっては、あまりなじみの無い名前でしょうが、モーリス・ズンデルは、19世紀の終わりごろ生まれ、75年に没しているというから活動期間はかなり長かったのですが、世間に知られるようになったのは晩年になってからです。
これはパウロ六世の共感を得た事も大きかったのでしょうが、死後評価された仏人の生物学者、神父ティヤール・ド・シャルダンや、禅を初めとした東洋の霊性と西洋の霊性の橋渡しをした米人の作家、修士トーマス・マートンと同じく、あの画期的な開かれたカソリック教会へとシフトした65年のバチカン公会議というものが世に出る契機となったと言えるでしょう。
彼の文章というのが、20年代から残されているというのは驚く他ありません。
そのくらい彼が提示したものは、制約された時代相にあってキケン視されただろうし、あまりにも時代を先取りし過ぎていたと感じざるを得ません。
そうです。この神秘家の眼差しは正しく現代に向けられていたのです!
”真の人間の姿、真の自己、神は実在するのか、人類の生く末は?…”これらの問いかけは、我々がかつてないほど基盤と信じて疑わなかったものがグラつきはじめ、否応なしに崩壊か新生かの岐路に立たされざるを得ない、現代の時代相を浮き彫りにしていると言えるでしょう。
教会のドグマなど他からの強制的予断、決定論への迎合は、この抜き差しならぬ現実になんら応えてくれないばかりか、フタ閉めされ、誤魔かされるばかりです。
そこで彼が告示するのは、現存(彼にあってはイエスの現存であるのは言うまでもないです)との神秘的、実存的交わりです。現存は限界内に閉じ込められた自己を解き放つ他者として臨在し、この神的現存のあるところ真の人間も現存すると語られるなど、とても現代的問題に通底していると言えます。(これは実に彼の初期の時代フランスに住していたロシア人、ベルジャーエフの神人キリストと神と人間の相関関係と結び付けた言説と通うものが有ります。多分両者の出会いは無かったと思われますが…)

しっかし…それにしてもズンデルの本を読み返していると、いかにも”誰かさん”が書いてそうなことが所々見いだされるようです。
この誰かさんはどのくらい理解して書いているのか知らないですが(キリスト者でもない)、モーリス神父に私淑でもしてたんだろうか? でなきゃパクリか?
いや、そんなことは無いと思われます。(まるで他者のように他人事を言っているよう)特に意識していなかったですから…十年くらい本を読んでそれっきりで、上述したようにあまり熱心に読書していたわけではなかったのです。
ただあの「真の人間が見いだされるところに神も見だされる…」という言葉にすごーくインパクトを受けた事はハッキリ身に覚えています。
久しぶりに四谷に有るカソリック書店”サンパウロ”に立ち寄ってみて、ズンデルの近著「私というものは他者」(福岡カルメル会刊)が目に留まり、電撃のように内側に閃くものがあったのです!
私にはずうーっと前方に指標が与えられていて、自覚なしにそこから促されるままに、ここで書き続けていたような気がしてしょうがないのです。
私の内側で感じていたものは、実は知らず知らず他者からもたらされていたのかもわかりません。
それはこの生まれ出るのが早すぎた、現代の神秘家の向こうにいる、”見えざる他者”なのでしょうか?

O一般書店では求めにくいですが、前記の書店などには置いてあります。







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”私は誰か?、お前は誰か?”

2017-05-18 13:16:22 | 求道、探究
ラマナ・マハルシは”私は誰か?”と尋ね続けて行けば、真我に突き当たる、という真我探究の道を推奨していました。
しかし、私はほとんどこの道を試みたことがありません。
試みようとすると、すぐ雑念が浮かび初め、何度もその問いかけからそれてしまうのです。
”私は、私は…晩飯は…私は焼肉…”…こんな訳で私は”私はマインド”からちっとも進みそうにないのです(笑)
この道には強い意志力が必要なのではないですか? そう考えるのは私の表層的理解なんでしょうか?…私にはラマナが単なる意志力を用いた修行を教えたとは思えないのですが…
それと、こんな塩梅なので深い境地になったことが無いのですが、”私は…”と問うている”私”がずっと残り続けるような気がします。
それとも、どっかでその私は消えるんですか? 多分そうでしょう。
どっかで”明け渡し”というものが有るに違いない…ラマナはもう一つ、それに導く帰依の道をも推奨していました。
どっちみち明け渡さなければならないのでしょう。根気、機根の無いダメな私には最初から道は決まっているようなものです。
私はしかし、これを特に真我実現のための方法論とは捉えては居ません。
私はこの道を捉えようと…する先に捉えられてしまいますし…
雑念が先か、あのシェキナー(モヤモヤと雲のように現臨が立ち込めてくるサマ)が先か…
この思われたままの私からは、本当の私を見出すことが出来ません。
いや、本当の私を探そうという意志もどっかへ行ってしまいます。
私の中も外も現臨の中に在る…私はそこに現存している…
思われたままの私はそこから離れて常に何かを目指し、何かを信じ、考え、何ものかになろうと忙しがありません。
何が本当の私で、何が本当の真理で、正しい宗教、思想…一歩一歩悟り、神に至る道に取りすがろうと余念が無いようです。
この有り様こそが”私への捉われ”でなくて何でしょうか!
私には絶えてなかったことですが、私の信仰、私の思想、私の修行等によって、私を見出すことなど出来ないのです。
思われたままの私を起点にしている限り、その思いを超えることが出来ません。
ここに私の外に、絶対他者として現存するものが臨在してくることにより、私はこの思いから離れる事が出来るのです。
(”思われた私の外に…”という事がとても重要なことで、神といい、真我といい、それはチッポケな自分から観れば超えたもの、他者としてあるものであるはずです。ここから明け渡しに導かれるのです)
これこそが私からの解放でなくて何でしょう! あらゆる”私の…”から離れる事が出来るのです。
捉われというものの悉くが”私への捉われ”と言ってもいいでしょう。私が捉われているんだから当たり前のことですね。
なまじっか宗教やスピに関わると、この忌まわしきエゴ、我執から離れようとして、かえって”あれはエゴ、これは真我を装った自我”と、自我との終わりなき戦いに明け暮れるハメに陥ってしまいます。
(そういうことに関心の無い普通の人というのは実にフツーな自然人に思える…”救われたがる人”に比べどっちが救いを要する人だかわかりゃしません!)
そしてその思いがいよいよ増幅し、出口のない袋小路に入ったようになり鬱病のようになったりするようです。
こうしたことは思われた自己のままが、それだけで生きているという錯覚からくるのです。
事実は生かされている、自己を生かしてくれるものが有る、という事に突き当たらざるを得ないのです。
この事は雁字搦めの私から離れてみれば如実に分からされることです。否、現臨を目の当たりにしたら離れざるを得ません。
”私は誰か?”と自分で問いかけるよりも先に、”お前は誰か”とシェキナーの雲からの声なき声で問われているようです。
”私はありてあるもの、お前はあらしめられるもの…” 私をもたらしているものなしでは私はここに居ないのです。
そして”私はここにある”のヒビキと共に私自身で居られることが出来るのです。
















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主は私である

2017-05-14 11:18:42 | 独語
私は何でこうして書き続けているんだろう…
月15回くらいの更新を目標にやろうと決めたから?
やらなきゃいけないような気がするから?
正直、そう感じているところもある
だけど…
最初から薄々と感じてはいたが…最近よりはっきりしてきたことがある
これは…促されているんだ!

”私は神そのもの…私が主である”
こういうことを心のどっかで思っていて、それを発信してみようか、と正直思ったことも有る…何しろ、ハクが付くからね…
だが、もうそんなことは書けない…言えたもんじゃない…
これと方向軸は逆だが…”私はいない”とか…
私がそういう事書いていたとしたら…
それは…ウソだよ! 人も私も欺くことになるんだ
だって、そんなことただの一度だって私は促されていない、示されていないんだから…
私はOO…一体全体私は何だっていうのだろう、何になりたがっているというのだろう…
それとも、無や空に…なんでもなかったものになりたがっているのだろうか?
ああ…頭の中で”私はOO”が空回りするばかりだ…

”じゃ、お前がお前らしく感じている、そのままを書けばいいじゃないか…”
こ、これだ!…これだったんだ!
促されている、示されている…現実に、リアルに臨んでくるものがある!
ここに、現存しているんだ…このものあって、初めて開かれるんだ…私が…私の世界が…
何でこのもの無くして、”私はOOである”、などと言えようか!
”そうだ!…お前は今、リアルに何を感じている?…そのものをどう端的に言い表せばいいと思うか?”
 …この現に生きている私以上に私そのものであるもの…私以前から私でありつづける、原初なるもの…
深い意味も分からず、この言葉からくる衝迫させるものを受けて、そう書き続けている…
それは、現実に臨み、そして事に臨まずに居れない…
それは又、ハタラキである
ハタラキは生きている、生成してやまない創造そのもの
それは静止した存在ではない、形が無く、どんな枠、障りをも貫き、浸透してやまない
ハタラキに有って、私は生きざるを得ない
このものに在る時私は私で居られるのだ!
そして、私が何ものかになろうとすること、私が居るとか居ないとか、私が悟るとか、良いとか悪いとか…
あらゆる私の雁字搦め地獄から解放される…
主の現存に有って、思われていた私は消えて、まんまの私が現存する
私は主では無い!…”主が私なのである!”

どこへ向かうのかもしれずに、促されるままに書き続けている
そのことを通して、この永遠のはベールを脱ごうとしているのだろうか?
我が主は表に顕れ出ようとしているのか?
この何でもないものを使って…
そして、今日も私はタブレットに向かう…否、向かわざるを得ないのだ!






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現臨と原初のもの

2017-05-13 09:23:44 | 現臨、ハタラキ
ずっとこのブログを読んでいる方ならお判りでしょうが、私はここで特定の宗教や思想、あるいは特定の修法について、私自身も依拠していませんし、そうしたものを他に向けて示したりもしていません。
そういう特定の人向きのものならこの世にゴマンとあります。
ゴマンとあるという事はそれが世の主流ということなのでしょう。
特殊という事でしたら、私はこの世に二つとしてない、ユニークな人間だと自認してはおりますが、精神的な道において私は特定の何ものかであると主張するつもりは無いのです。
そういうことは、私が他の追従を許さないユニークな人間であることで十分なのです。私以外の全ての人がそうであるように…
ここで私が述べていることは、このような主流的特定の道に依拠し、追従する生き方への逆説であることに気が付くでしょうか…
私はOO教徒、OO主義者、OO法の修士…それらはその依拠するものに従属していて、独一無二の自分では無い、と言っているようなものです。
私は、事実上あの現臨に触れて以来、特定の何ものかであることが出来なくなってしまいました。
それはあるいは所謂哲学思想や宗教信仰、スピリチュアルな教えという枠組み、装いで言い表すことはおそらく出来るでしょう。
するとそのような方法で伝えられた人は、その言葉を超えたものを哲学、宗教、スピの教えとして認識してしまうことでしょう。
多くの人はこのように内奥でその現臨自体と邂逅し、捉えられる以前に、概念認識の手段としてそれら思考の枠組みの中に取り込んでしまうのです。
(後述するように、実際は邂逅しているのに、自覚されていない場合も多いことでしょう)
しかし、このようにして直接的な伝達の道(これは人の思いを超えたところで行われる)は絶たれるに至るのです。
人は例えば、ある書物を読むなりして、突然意識が高揚してきて、この現臨というものの片鱗に触れる事があるかも知れません。その段階はまだ概念認識による加工は進んではおらず、共鳴、共振による感動も生なままの原体験と言ってもいいでしょう。
しかし、何と多くの人は、そこからその言葉にならない言葉を自分の持ち物のようにして、自分の生き方、信仰の道具のようにしてしまう事でしょう…。
”素晴らしい言葉だ…何というこの上ない思想、これを揺るがない信仰にしよう…”
こうして第一義的な、原的なものから二義以下のものに変質してしまうのです。
それは現に臨んでいる自己という現存の外には見いだされ得ないのです。
それにある特定の宗教で信じられている神の名、あるいは高次自我、守護の神霊といったもので解釈することは自由でしょう。
しかし、凝り固まった思念で意味を限定してしまえば、その内実から切り離されてしまい、現に生きたものでは無くなってしまうのです。
ただ、自己の深部にそのものが生き、ハタライているか、現存しているかどうかが最も肝心な事なのです。
生きてハタラクものは、それ自体にハタライてもらうしかありません。
限界ある自己が主導とはなり得ない…限りある思念、意念で手をかけてはならないのです。
如何なるメソッド、修行法があろうと、その根源的な意志に根差していないならば意念でフタをする事にもなり兼ねません。
誰にでも原体験というものが有るでしょう。突出した体験でなくとも。
理屈の無い歓喜の瞬間…しみじみとした生への感謝の思い…これを抽象的な概念に置き換えることなど出来ません。
そのことを思考で捉えようとせずに、ただ感じて、味わってみれば、自分を超えたハタラキというものを見出すことが出来るでしょう。
そしてただそのものが自然にハタラクことにゆだねるだけです。やがてそれ以外に何も為し得ないという事が分かってきます。
自分を超えているという事は、自分が思っている、信じている以前からそのものであるということです。
現臨とは、人それぞれの原初的なもの、それなしでは自己が成り立たないもののことでしょう。これは、誰にとっても例外なしにそうなっている筈のものです。
自分自身であるだけのことは、なんとそんじゃそこらじゃ見つけられないのです。思われた自分よりも間近にあるものなのに…
そんな訳で、このヘンテコな私のため、あなたのために今日も書き続けているのです…。










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