人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

生きた交流

2017-05-11 00:02:56 | 人生の教師
ある日、自称スピリチュアル・ヒーラーの先生が頼みもしないのに私にその”見えない教え”を垂れてきたことが有りました。
私はただ知人に誘われてその先生の集まりに参じただけで、別段教えを受けに来たわけでは無かったのです。
私には、その先生の弟子であるその知人(自称気功師)が言っている事の方に共感していたのですが、その先生にゃちっとも共感しなかったのです。
というのも、”私にはインド系かなんかの霊的なヒーラーが居て…その患者のカルマはああで、前世の因縁はこうこうで…”というその筋ではよく聞かれるような話(ちっとも見えんがな!)を、さも”私が教えているんだから、教わる君たちはしっかり聞きなさい!”という態度アリアリで話していたからです。
何故、その弟子の方に共感していたかと言うと、その人は常々”私が癒す訳じゃない、ただ自然に気の流れにまかせるだけなの…教えるも教わるも無いの…持ちつ持たれつなんだから…”と言っていたからです。
ところが、何でこんな無為に向いているような人がその師の前だと”はーっ…先生、先生!”となってしまうのか、私にはトンと理解出来なかったのです。
私はその先生の余計なお世話のような”み教え”にカチんと来て、ついにこう言い放ったのです!
「アンタは霊界だとか、前世だとかフツーの人が理解出来ないような事言って、煙に巻いて人心を操作しようとしているんだろ!」
すると先生「私は事実を言っているだけなんだけどねえ…」
「バカ言ってんじゃない!…あの世とか前世なんて、この現実の事実とは何の関係もないだろ!」とすかさず返す私…”おい、自称気功師、アンタも何か言えよ!”と言いたかったのですが、その人はその険悪なムードの中でオロオロしているばかりなのでした…
この時、私に想起されたのが、D会のM女史との交流のことでした。
何度か直接女史と差し迎えで対したことがありましたが、形としてはどうしても私の方が教わるという姿勢は有ったものの、女史の方からはいつも教える、教わるという立場を超えた、自由な交流に導こうとしていたのです。
女史自身には、D会の根幹となっているM師を通して開かれた”大調和世界観”というものが絶対的居り場のようになっていましたが、そのことを私に向ける事は無かったのです。あくまで私が自然な形でその世界を受け容れるようになることにゆだねていたのです。
そして…「あなたはどうなんですか!ご自分の口でご自分のことばでおっしゃって下さい!」と、どこまでも私に主体を持たせるように促していました。
そうすると自分自身にも女史にも信頼感が生まれ、いつのまにか、どういう訳か(これは何とも言い表しがたいことなんですが)…自分も消えて、対自している女史も消えてしまうような感じになってしまうのです。
一対一の人格的交わりでありながら、そこに一つの生きたものが通る…ハタラキが現臨して来る…そこから離れた霊界とか四次元の話など入る余地などこれっぽちもありません! 現臨というのは正にこういう事なのです。
思考があちこち馳せ飛んでいるところに、リアルなものに覚めるという事は無いのです。
そして一方から他方への意志的、人為的ハタラキかけ、心理的暗示、人心の操作、ある種の力の行使…精神世界にいつも取り巻いている、こうしたもの…支配や隷属的意識が介在する関係からはお互いの真の信頼、実存的出会い、交流というものは生まれません。
そして、見える存在は見えざるハタラキの媒体となり、その現臨としてのハタラキ自体との実存的交わり、又人と人との実存的共同的関係の生まれる契機となるのです。
こういう機会を与えられたことは実に感謝に絶えないものがあります。
私は先のヒーラーの先生にこのことを少し話してみたところ、いつのまにかお互い共感しあえるようになりました。彼にも何か覚えられているものがあったのでしょう。
最初から”教えたがり病”は出さなきゃあいいのに…職業病なんでしょうかねえ…。






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女性的なるもの

2017-05-09 12:51:55 | 雑感
なんだかんだ言っても、今日は人類的な規模で精神的目覚めが顕著になってきているように感じます。
欧米を中心としたノンデュアリティの流行もそれを表しているとも思えます。
私はこれは、女性の在り方というもの、多くの分野で女性的なものが顕わになってきていることと関係が有るように感じています。
女性が目覚め始めたのか?…そうとも思えますが、それ以上にもともとの女性的存在の有り様というものに人々が目覚め始めたという事の表れだと思っています。
最近では、女性の覚醒者というものも出てきていますが、これまで聖者、賢者と言われる人で女性というのは皆無に等しかったと言ってもいいでしょう。
それは女は業が深く、おバカで度し難いから?…そうかもしれませんが、それよりも”賢そうなバカは居なかったから”と言った方がいいかも知れません。
考えてもみてください、男というものは、もう本当に出しゃばりで、頼みもしないのに人に何かを教えたがり、講釈なんぞ垂れて知識を披歴したがり、人を操作しようと支配したがり、ガリガリ亡者ばかりでこれこそ度し難い性ってもんじゃないですか!
(私などもこういう事はいつも自重しているつもりが、ああ…生来のサガってもんは如何ともならず…という次第…)
女性は本当にアイドルなんかが目の前に現れたりすると、もう我を忘れて”キャーッ!”とそれしか見えない如く、その世界に没入してしまうようです。
理屈なしに一なるものに没入できるらしい…こういう事は女性にはもう天性から備わっているみたいです。
そこへ行くと、男どもときたら、もう神経症みたいに”エゴは巧妙で、策略をめぐらしているんですよ~、騙されちゃいけませんよ~、それを落とさないと真我には目覚められませんよ~”…とか言って、いつも巧妙に人を騙している野郎が一体、何を宣っているのか!と言いたいです。
そーゆーの、女性にしてみたら”私が私でいることの何が悪いんだ、バーカ!”というようなもんでしょう。それはトータルな私で居られるってことでしょう。
又、男の考える悟り方ときたら、”瞑想法には、コレコレのメソッドが有り、段階が有り、正しい規則に則り、努力精進を…”って、一生飽きずにやってたらいいだろう…そして”究極の悟りってーのは”、とこれまた永久に叶う事の無い幻想に憑りつかれてしまう…これこそは男の救い難さというものです。
これにひきかえ、女性は何の努力も無しに自分を明け渡すことが出来るらしい…愛する人に。
”あなたしか見えない、あなたしか居ない”…(一生に一度くらいはそう言われてみたいものだ)
”愛は盲目”と言いますが、これはいつどこで神的な最愛のものへの明け渡しに昇華されるか分からないものです。
悟りが何かなど分からずに、愛の意味も知らずに…理屈もやり方も超えられてしまうのです。
女は男よりずっと天国の近くに居るものだとつくづく思います。
というより男性的なものの行き着く世界は、世界を火の海の地獄に変えてしまいかねない、ということを今、世界人類は思い知らされているのです。
”これまでの歴史は男性的なものが支配していた”と世人が言う通りでしょう。
女性的なものは、その男性的力によって追いやられていた…そこで封印されてきたものは、人間の内なる神性といったものでしょう。
そこにはおそらくは封印される理由も存したようにも思われます。
あるいは誰かが言っていたように、太古の昔男性原理と女性原理の戦いが有って、前者が勝利を収めてこの歴史が開かれたのかもしれません。
しかし、今我々が直面しているのは、戦いからはどうにも立ち行けなくなってしまった、ということではないでしょうか?
正しさ、強さの誇示、そしてその力の行使にはもう先が無い…女性的なものは、戦いで無しに、自分が降参すること、自分を超えたものに捉われる事で真実が開かれることを今、示し始めているのでしょう。
私が日ごろ書いているものは、このように女性的なものと言ってもいいものです。
私はずっと内部にそういうものが息づいているのを自覚しています。
魂の平安というものは、そういうものにしか導かれないということも知らされています。
勿論、男っぽいところも自覚していますが、最近、歳のせいか堪え性が無くなってきているのです。
これはケンカっぱやいことと観るべきか…いや涙腺が緩くなってきているのでしょう…。

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生と死のエンライトメント

2017-05-07 16:20:45 | 覚醒
いつも愛読していた、エンライトさんのブログが数か月前突然閉鎖してしまったと思っていたら、亡くなられたそうですね。
以前からその事をブログで仄めかしていましたが、やはりそうでしたか…
思えば、「裏宇宙からの遺言」なるブログ名も何やら暗示的でした。今更ですが、これは無明庵EO氏の「虚無宇宙からの伝言」をパロっていたんですね。つい最近知りました。
この両名が相次いで他界してしまうとは、実に因縁めいた話ではあります。
この方の記事には”永久保存にすべきものがあった”、と私は感じていたものでしたが、本人の意志によるのかどうか分かりませんが、消去されてしまったのは如何にも残念なことです。
この方は歯に衣着せぬ批判的コメントをしておりましたが、単なる中傷・誹謗でない批判というものは必要な事だと私は思っています。
それをしない人はしないでしょうが、する人は絶対必要です!
スピ界に限らず、如何なる分野のものでも、そのようにして土壌は切り開かれ、掘り下げられ、深められてゆくものだと思うからです。
それはさて、上記のことは、占星術師Aさんのブログで知り、そこでコメントしようとしたのですが、ややこしいシステムが有るのでやめました。
書こうとしたのは大体こんなことです。
以前にも書いた事ですが、悟りや覚醒、エンライトメントと言われるものは、思いを超えたものであるので、元々定義など出来ようことも無く、それぞれ観方、感じ方というものがあります。
Aさんはこれをノンデュアリティに関連づけて、自身の体験を述べておりました。
それによると、”自分が無くなってしまう、思考も感性も、苦しみも至福も無い…と。
まさに非二元的なもので、体験する自分も無いと言えそうなものです。
これを踏まえるとオカシナことになるのですが、本人がそう感じたのでしたら、きっとそうなのでしょう。
私もそんな感じになったことも有りますが、それは死と狂気とが隣り合わせになっている事態と言ってもいいものです。
エンライトさんもEOさんも同様の体験のことを述べております。
これは、カリスマブロガーであり、ノンデュアリティの火つけ役のAさんがその活動の契機となった、エンライトメント体験とは異なるものでしょう。
彼は何度もそれは至福を伴うものだと言っていましたから。彼が広めたノンデュアリティの看板には偽りが有ったのです。
エンライトさんはそのことを指摘していましたが、しかし、彼が言いたかったのは、”そんなのは本当のノンデュアリティの道じゃない、ウソなんだ、騙されるな!、本当のものてーのは…”
というような事では無かったハズです。お手軽なノンデュアリティ・ポピュリズム?への警鐘といったものでは無かったでしょうか。
教師と追従者との非二元ならぬもたれ合い、集客して講演をして瞑想法で商売をするという直接的道ならぬ二元的スピ稼業の道…
そして、そこに取り巻く生の享受、賜ったものへの裏切りとも思える空虚なゾンビ的思念…
何が本当の非二元の道なのでしょうか…幸福も無く自分も無くなってしまえば、本当もヘチマも無いじゃありませんか!
抽象的な観念世界で分かったつもりの人には、ブラック・ホールのように思考も感覚もそして意識も吸い込まれて行き、死の世界が広がっているのを理解出来るとでも言うのでしょうか!悟りを極めようというのは、極めようとしている自分の観念でしかないのです。
そして行き着くのは虚無のうちに熔け去るか、永遠の死のみでしょう。
ここには、忌まわしき、憎むべき自我の解放ならぬ永遠の消去へと向かう情念、自死への誘惑といったものを感じるのは私だけでしょうか?
私がここで書いていることは、言うまでも無く”現にここに生きている”という事が大前提なのです。”死の世界のことは、死者をして語らしめよ”
生きているのか、死んでいるのか分からない非二元の道はともかく、このエンライトメントと言われるものには、幸福というものも無い、と言い切れるものではありません。
というより、これまであらゆる精神的道で伝えられてきた、そうした言説というものは、上記カリスマブロガーAさんのものも含め”如何に幸福に生きるか”という事と結び付けられていたのではないでしょうか?…でなきゃ”死への手引き”みたいな忌まわしいものは、墓場に埋まったままでしょう。生きる屍が何を伝えようかというものです。
ラマナ・マハルシが言う至福とは、不幸というものと裏表の消えて無くなるような幸福でない、ずっとそこにある幸福のことを言っていたのです。
感じ方はそれぞれある…一面的な観方に偏向してはならない、という事もエンライトさんが度々指摘していたことです。
忘れてならないことは、エンライトメントは、そうさせるもの無くしては起こり得ない、という事です。
そして私は思考も感覚も消え、意識そのものになって、至福に包まれていました。それを受け容れるしかなかったのです。
至福でないものには赴くことも導かれることも無かったのです。
おそらくはある種の瞑想の技法などでは、その恩寵というもの無しでも、思考も感覚も超える事はあるかもしれません。だが、そこに至福が有るのかどうかは私は知りません。人がどこに赴くのかも知りません。
恩寵の無いところ幸福も無いでしょう。
私には恩寵と切り離されたものは、エンライトメントと言うことは出来ません。
それはただの自己の死滅でしょう…そこに恩寵が有れば、よしんば死という運命が待ち受けていようとも、死の恐怖は乗り越えられるでしょう。
世人が言う死とは、死の恐怖でなくて何でしょう。そこでは死が死でなくなる…

エンライトさんは果たしてどう感じていたでしょうか?
そのハンドルネームは…ほお…エンライトっていうんだ…












コメント (2)
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今日も本当のことを書きます!

2017-05-06 10:30:02 | 雑感
私が何でここでブログなんぞを書いているのか…
それは一口じゃ言えないものが有ります。毎回違う事言わなきゃなりません。(笑)
精神的な道に関してですが、一つにはこの世から宗教とかスピ屋とか自称覚者など居なくなって欲しい、という願いのもとに書いていたりします。
こういうものが存在しているということは、そこに何かを教える人、従わせようとしている人と、追従、従属している人が居るということです。
お追従すべき人間は特別視され、崇められますが、自分自身は内心何の価値も無いように思っていて全く信頼していません。
ところが教師に従属することで、神サマの付属品みたいに思えて、にわかにエラくなったように感じ出します。
そして何かと人を従えたがる教師も又ある力に隷属していて、その力を行使する相手を必要とします。
つまり依存する人間に依存しなければならないのです。
この関係は教師と追従者との共依存の関係と観ることが出来ます。
ああ…考えただけでも息苦しくなりそう…人間てそんなに不自由でいたいものなのだろうか?
それは自分の本心の発露なんでしょうか?
こうしたところからは、私の、我々の本当に自由な、障りなく生きれる世界、調和世界というものは開かれることがありません。
それぞれが一コの独立した人間でありつつ、すべてを共有出来る世界は生まれ出てこないでしょう。
こんなこと言うと、非二元カブレの人は、”独立した人間など居ないよん!”などと宣うのでしょうが、その多くは非二元教師にお追従しているばかりではないでしょうか?
その他、”私は神そのもの…我即神…既に悟っている”実際に自分がそんな心境になっている訳でも無いのに、教師、覚者の言説の丸呑み、迎合…これは他への寄生、他からの盗用でなくてなんであろう。彼らは心に無いような、使い古した、借り物の言葉を平然と言う…あの現臨の前でそんなことが言えるのだろうか…(もし、”私は他人の言葉をオウム返しすることしか出来無い、無知蒙昧です!”という居直りなら…
何十倍も価値が有るし、光輝いているし、生きたものとなります。心底に根付いているものが伝わってきますから…)
そして又五次元だか六次元だか、頭の中だけでトンでる話が盛られたりしますが、それは言葉の世界に支配された平面的、二次元世界から一歩も出ていないのです。
こういう有り様のものを思考停止などと言ったりしますが、思考が無くなっているのではなく、まるっきりある思念への隷属なのです。
この共依存関係の周囲には思念が蔓延しているのです。
強固な思念体が神に成り代わって、”思凝神”がその結びつきを強めて行きます。
ネットなどを通じて信者たちは、この思念ばかり拡散するので、どんどんこの疑似神は増幅されていきます。
しかしながら、このベタベタお追従というものと、共感したこと、共感に根差したことを伝えることとは全く意味合いは違います。
共感というものは自分自身の中から出てくるものだから…
そして又、こういうお追従ばかりしていた人が、忽然とその迷いから覚めたことを表明されるならば、どれだけこの思念に覆われた世界に風穴が開けられ、啓蒙に関与することになるか、計り知れないものが有ろうというものです。
このこと自体、思念を超えて、光が差し込んでくることの証ともなり得ます。
それは信じている何か、思われている何か、部分的に従属している何かでは無くて、独一無二の自己の証なのです!

私は勿論スピ教師でもなんでもなく、このブログで何かを教えるつもりもなく、好き勝手なことを書いているに過ぎないのです。
もっともブログを始めた当初はそういう要らん気持ちもあって、そういう事を書いてきたかもしれません。
ただ、そういう気持ちを吹っ切りたい、という気持ちが強くあったのも確かな事です。
だってねえ…人生の裏側っていうのは、どんなクダラン、ツマラン人間にも開かれているんですからねえ…そういう人間が感じた事をなるべくありのままに書きたいと思っている次第なのです。
何処にでもいるフツーの人間にも…何て心にも思ってないことはよう言わんですが…
”こんなヘンテコな人間が他に居てたまるか!”ってんですよ!

そんな訳で今日も本当のことを書いてみました!…今日”は”だったか…?










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猫と童心

2017-05-05 13:18:10 | 詩的文章
僕の毎日の日課は猫動画を観る事…
だって、可愛いでしょ…可愛いものは可愛いいんだからしょうがない…
”いいトシしたオッサンが…”と人は言うかも知れない
こういう事は小学校高学年の頃から言われてきた
”アイツ、まだあんなものに夢中になってる…くだらねーの”と…
そして…
”何時までもそうしていてはいけません!…成長出来ませんよ”
という声に負けて、泣く泣く未練を残したまま手放してしまった…
と…思ったら…
マトモな大人になろうとして、置いてきたはずの、手放したはずのものが…
ここに在った…

中学の時だったか、ある夏の日
海水パンツを探していたら、母がタンスの引き出しからウンと古ーいのを引っ張り出してきた
”ここに在った”…って…
”ンなもの…着られるわけないよお、なんでサッサと捨てちゃわないの!”
と、僕はつれなく言い放ったのだった…
すると…
母はシクシク泣き始めた…
”お前はあんなに可愛かったのに…”
昔の僕のことをいつまでも忘れられない様子だった
そんな母のことを内心とても可愛く思っていた

愛着は捨てなければならないかも知れない
手を離さないと、得られないものもあるだろう…
でも、どうしたってそこに赴いてしまうものもある
捨てようとしても、どうしたって離れないものもある
癒し、平安…
誰にでも、いくつになっても息づいているもの
そこに自ずと向かわせられるものを、
一体どうしようというのか…
”本当は全部手放したい!
生まれ赤子のように何もかも開けっ放しでいたい…”
自分の中の童心にはウソをつけない…

僕はもう幼児のようにはなれない
余計な、狡猾な知恵を持ちすぎてしまった
その知恵も錆が回り始めた…
身も心もくたびれて行くばかり…これが自然のコトワリ
自然の…
”しなければならないもの”にゃ、もうくたびれた…
気ままな猫にはしたいようにさせよう
なるがままに…あるがままに…

可愛いいなあ…

















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