人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

ゴータマ、ブッダとなる

2017-09-03 10:23:15 | 仏教関連
ゴータマ.ブッダは、悟りを求めて王子という境遇を捨てて、修業の旅に出るのですが、その途上アーラーラ.カーラーマという仙人にめぐりあい、弟子入りします。
ゴータマはカーラーマに「あなたはどういう程度の境地にあるのですか?」と、問いかけると、カーラーマは「無所有処(むしょうしょ)ー何物もなく、何物にもとらわれない境地ー」と、答えたそうです。
ところが、ゴータマは「その境地にあっても、涅槃に至ることはないだろう」と言って、そのもとを去って行きました。
次いで彼は、ウッダカ.ラーマプッタというこれ又仙人に入門します。
ラーマプッタが体得していた境地とは、「非想非非想処(ひそうひひそうしょ)ー何も思うのでもなく、思わないでもない境地」だそうですが、ゴータマは又しても"それは自分が目指している涅槃の道ではない"と、師と訣別するのでした。
ここで、まだ悟達に至っていないはずのゴータマに、何故こうした悟ったようなことが分かるのだろうか? という疑問が生じてきます。
まず、このエピソードを伝える中部経典には、ことさらゴータマには元々覚者たる風格を備えた、悟るべくしてそうなったという、特別な存在として描こうとしている傾向が垣間見れることを挙げなければならないでしょう。ブッダが体得した涅槃の境地とは、もっと究極のものだったということを言いたげに...本当にそうだったのかもしれませんが ...
何にせよ、分かる人には分かるということもあるでしょう。
体験とか瞑想の境地などに捕らわれていたら分からないでしょう。
これまで如何に多くの人がそれらに纏わるきらびやかな言葉に眩惑されてきたことでしょう。
そういうものとは、関係なく普段意識の奥にあって気がつかなずとも、ずっと息づいているものが誰にでもあります。
人生の諸々の苦難を通して発現してくる根源的仏性的なもの...あるいはブッダをして、その二人の仙人の示す悟境に身心を頷かせなかったものは、こうしたものだったのかも分かりません。
それは内なる声、導きともなるもの...このものに会わせられる、合わせていくことが悟りの体験、境地のみに囚われて追いかけることよりもなんと大切なことであることでしょう。
そもそも、このもの無くしてその内実も無いのです。
そして、このことはその後のゴータマの菩提樹の元における「実にダンマ(法)が、熱心に瞑想している修行者に顕わになるとき、彼の一切の疑惑は消失する。というのは彼は縁起の法を知っているから」(ウダーナ)という、ダンマの顕現の表明につながってくるのです。
そこでは、精神的目覚めの主体は、修行者個人から形なき命に転換されています。
これをゴータマを通してのブッダ(内なる仏性)の誕生と見ることも出来るでしょう。
個人の力ではどうしようもない、それは究極も何もなく、ただ自己を超えたつながり ハタラキに打ち任せることがあるばかり...縁起の法。
ここから、ゴータマ.ブッダは、苦悩、トラワレからの解放に預かったのです。
先の仙人たちの生き方に頷くことがなかった別の理由は、その示す道が現実の苦難の解決にはつながらなかったからでしょう。
涅槃、解脱の道とは、この生の現実から離れることではなく、どこまでも身はここに在りながら、それに囚われずに、安らいでいくダンマに裏打ちされた生き方だったのでしょう...。





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ブッダはダメ人間だった

2017-09-01 00:04:44 | 人生の裏側の図書室
大村大次郎著「ブッダはダメ人間だった」(ビジネス社)

普段、あまり新刊は買わないのですが、タイトルが目に留まり、ページをめくると笑いが込み上げてきてつい買ってしまいました。
ブッダと言えば、いうまでもなく仏教という代表的宗教の開祖、覚者様の代名詞とも言えるでしょう。
悟りという言葉も多くここから派生しました。それはたゆまぬ修業を経て至る境地なのだとか...
しかーし...「(ブッダは)根性がなかったから悟りを開いた」(くーっ...いいi)
「くれるものはなんでももらう~肉食もOK~」
「売春婦も弟子にしていた」...
この著を手にしたならば、それらが如何に先入観、固定観念に染められたものだったか、ということを"悟らされる"ことでしょう。
ここでは、主に最古の仏典とされる「スッタニパータ」に焦点をあてて、ブッダの真実に迫ろうとしているのですが、私は既に二年ほど前、毎田周一先生の著書(「釈尊にまのあたり」など)に触れ、ブッダにまつわる長年の覆いが開かれた思いにさせられていたのです。
私自身が長い間先の先入観に縛られていたクチだったのです。
仏道と言えば、厳しい修業に明け暮れて悟りを目指すというイメージ...仏教の教師と言えば、感情を押し殺し、超然として悟り済ました人間のイメージなどがどうしても拭い去らなかったのです。
しかし、こうした仏教につきまとう"苦行、克己"といった、イメージは、多くバラモン(ヒンドゥー)教やジャイナ教からもたらされたものであることは、この著でも、専門家諸氏でも指摘されています。この原始経典からしてが、すでにそれらの教えが混入しているらしいのです。何と言ってもブッダ在世時のインド社会は、バラモン教が我が物顔で教権を支配していたのです。
そこで著者は、「スッタニパータ」の特に比較的先の混入の跡が見られない第4、5章を繙いてブッダの真実に触れて欲しいと促しているのです。
その主眼となるのは「固着した思いから離れること」だった...それも人にも自分にも優しいとても現実に即したものだった...
難しい修業も、前世のカルマとか死後の世界とか考えても分からない、妄想と結びつくことなど何もありません。
それは所謂悟りとは何の関係もないことでしょうか? いや、このことと離れて一体どこに悟りがあろう...ブッダとはこのことに目覚めている人のことでしょう。
ところで、この原始のブッダの言説に従えば、本当にありのままのブッダをまのあたりに出来るか、と言ったら...そうつあ...分かりませんi
何しろ、三千年以上も昔の言葉なんですよ。これ自体がもう驚くべきことで、これはブッダの真実に迫る一つのアプローチにはなるに違いないでしょう。
しかし、本当の仏教、ブッダの教えにもこだわる必要は無いでしょう。ブッダは遺訓のように「自己、法を灯、拠り所としなさい」(自灯明、法灯明)という言葉を残しています。
著者は「自分のことは自分で考える」と、普通に自立心ということを強調していますが、何故か"法"については触れてません。まあ、分からないものですからね。
私はこの著を読んでピンときました。推測ですが、これはバラモンから借りた言葉では無かったでしょうか?
人が依拠し、守るべき法則のようなもの...漢訳で法とされている意味がなんとなく分かりました。
でも、本当にブッダが伝えようとしたものは、そういうものであって、そういうものではなかった、と思われます。
我々の残されたギリギリの最後的状況...この世の如何なる宗教、思想...依拠する道が、すべての寄るべが失われてしまった時、何が最後の拠り所となるのか...私はブッダのこの言葉は、その時のことを想定して語られたものと思っています。
守るべき法則のようなこちらが構えて、処していかなければならないものが、ギリギリの場で一体何になるでしょうか?
これは苦行や法の遵守に縛られていたバラモンには理解し難い、恩寵のハタラキ的なものではないでしょうか?
このことに着目したのは、玉城康四郎先生でしたが、このことを欠いて、そも"トラワレからの解放"も覚束ないでしょう。
自分からは固着した思いから離れられないものです。
それは又自己を超えたものであって、自己から離れたものではありません。
自己と別の何物があって、それに則るという二段構えが無いのです。
このことは、あらゆる宗教を超え通底していることでしょう。そう、それは正しく宗教という壁を超えたものですi
三千年という時も超えて...今日我々は一体何を拠り所にして生きたらいいのか?
究極の自称覚者ならぬ、究極のダメ人間ーそれはあなたや私かも分からないーに聞くべしi


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