人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

普遍的な祈り

2018-10-21 11:22:23 | 祈りと瞑想
私はいつも自分にしか通じない、自己満足、独りよがりなことばかり書いているのかもしれません。
だけど...私があなたの、ことに内面のことは分からないように、私の内面のことはそういう感じにならざるを得ないとも思っています。
そしていつも書いていることで、どんなにヘンコなことと受け取られ(ヘンコな人間には違いないですが)、どう思われても、ある面普遍的なものに意識が向けられているのです。
例えば、特定の信仰、修行法を呈示しようとは思っていませんが、それらがどんなに不特定多数に受け入れられたとしても、それ自体が普遍的なものとなる訳では無いからです。
そういうのはポピュラリティというか、一般に向けられるものではあっても、普遍に向けられることとは違うものでしょう。
しばしば混同されがちになり、意味合いが曖昧なこの一般性と普遍性とはどう違うのでしょうか?
これについて公共に受け入れられる、客観的な説明で片付けられて、納得されてしまうものは、すでに普遍性から外れてしまうことになるでしょう。(こういう言い方がもう、独りよがりなものかもしれませんが)
普遍性というのは、一人一人の内面に開かれるものではないでしょうか?
一人一人に今日のような抜けるような秋の青空の素晴らしさが実感されたなら、それは普遍なるものを共有していると言ってもいいのではないでしょうか?
従って、普遍的なものを広めよう、押し広げよう、というような目論みは実にズレたことなのです。"この教えが、やり方が最高だ...これでなければダメだ..."何てーのは大きなお世話以外の何ものでもありません。
しかし、私は不特定多数の人間に受け入れられようとは思ってませんが、一人でも多くの方に普遍性が開かれることを願っているのです。
"普遍性が開かれる..."それは外から得たり、外へ広めようとしなくても、すでに内面に在るのですi
私はいつも書いているように、特別な修行などしてきませんでしたが、一つ祈りに導かれたとは言えるのです。
祈りとは、思いを超えたものにつながろうとする手だて、乗り物であり、又、内なるものがこちらにつながろうとする、現れ出ようとすることへの応答とも言えます。
祈りにおいてこちらの願いとあちらの願い(これが浄土系仏教で言う本願というものでしょう)が一つになるのです。
何よりも祈りというものは、形から入ったとしても、いつのまにか思いを超えたものにつながってしまうのは、こういう理由があるためでしょう。
どんな祈りの文句、やり方というのは、先に書いたように二の次です。それに囚われたら普遍性への道は閉ざされかねません。
祈りの文句でよく知られているのは"南無阿弥陀仏"ですが、これは浄土系仏教にしか通じない名号ととってしまえばそれまでですが、真宗のある方面では、必ずしもそれに囚われる必要もないらしいのです。
これは実に私には頷けることです。南無阿弥陀仏とは無量寿、無量光、無辺光仏...つまり永遠の命、普遍の光のことです。
これは如何なる宗教、思想を超えて、万人の内に根差し、息づいているものに内実を有していると言えるでしょう。
要するに言葉に囚われることなく、キリスト者も、回教徒もその内なるものを呼び覚まされるものを憶念して祈ればいい...勿論一人一人違っていいのです。
神仏というものでなくとも、その人にとって最愛、最上のものであるはずのものでしょう。

こう書いてみて、元より祈りに囚われる必要もないのですが、誰しもがそれぞれの道が普遍的に与えられているように、私自身に与えられた道の一端を記したまでです。




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本尊と意識の中心

2018-10-19 12:14:19 | スピリチュアル
「神、導師、真我は同義である」とは、ラマナ.マハルシの言葉ですが、この場でのスピに関する記事では、このニュアンスのものがまっ中心にあると言っても過言ではありません。
私にはあの精神的爆発に与る直前に、それを「南インドの瞑想」という本を通じて読まされていたことが運命的だったのです。知らずに意識に呼び起こされるものがあったのかも分かりません。
それは宗教では捉えやすく、信仰対象として「ご本尊」として受け入れられているものと通じるものなのでしょうが、安易に片付けられていい訳がありません。(ある意味では当ブログのご本尊には違いないでしょうが...)
しかし、これを端的にどう言い表していいか、適切な言葉が無いときてるのです。
法身仏、応身仏、無位の真人、内なるキリスト...これはおそらくそうしたものとつながったことのある人には自明のもので、私自身はただ身に覚えているものに意識を向ける、向いちゃうだけのことで、そんな名称のことなどどっちでもいいことなのです。
そうは言っても...どうか読者諸氏には、この他に向けて発信することの苦心をお察し頂きたい...いや、ただそのものを明らかにし、証し続けることに無上の喜びを感じているだけかもしれません。

それは、そもそも私が意識を失いそうになる苦境から救われたところから発していると何度も書いていますが、この事を具体的に記せば、"飛んで行ってしまいそうな意識に、自ずと収斂されて行くあるものが臨んだ"と言ってもいいでしょう。
それをしばしば現臨と呼んでいるのですが、そこに"意識の中心"がもたらされたのです。
これは何度も言っているように、自分の意志的、意念的なもので、例えばアジナーとかどっかのチャクラなどに意識を集中しようとすることとはまるっきり違うことで、無為的なハタラキによるものなのです。
従って強いてそれに与る、望むコツらしきことを言えば"集中しようとしない、念じないこと"と言ってもいいのです。
"それじゃあ、手だてが何もないじゃあないのi"...ごもっともです。
しかし、念じない程度に注意してみると、この自ずからある中心に意識が向かって行くのが感じられてこないでしょうか?
そして段々安心というか、やすらぎに包まれるのを覚えてこないでしょうか? これは祈り心地になっていたら分かるでしょう。
そうです。意識の中心と安心とはセットのものなのです。そしてそれは"神、導師、真我"の三位一体的なものからきているのです。
私は一頃意識の変容をもたらすのは、ある種のパワーとか波動、プラーナなどハタラキ的なものによるものと、こだわっていた時期もあったのですが、それも欠かせないものには違いないけれど、それだけでは足りないもの、それに片寄ると"覚醒、爆発してハイになりゃいいってもんじゃないi"という事態になってしまうものをやがて感じてきたのです。
三位一体的な現臨の内にあることは、あらぬ意識障害の要因ともなる単なる"スペース状態"とは違うのですi そこには霊なる親、ガイダンス、導師がお在すことを忘れてはなりません。
真我的なものに意識が収斂されているので、中空に飛んで行く感じがしません。
そして、意識が超越的な神的なものに向けられる...自ずと祈り的心魂が生まれる...私は祈りから導かれたのでした。

私はいつも嬉々としてこういうことを書いていますが、これもご本尊様の要請なのかもしれません。
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ご本尊みたいな?

2018-10-17 17:00:32 | スピリチュアル
自分で言うのもおかしいのですが、日頃私がここで書いていることは、一寸かじったら非二元スピで言っていることと変わらないように感じられるかもしれません。
自分を修行などで段々高めていって、何かに達しようとする道がパスされている(ダイレクト.パスー直接的な道)ようなことを言ったりするし...
自分という個人はいない(ように感じる)ということにも触れてみたり...
で...私は元々悟っているのか? んなアホなi
原点に立ち返ってみて、そんなこと絶対言える訳がありません。
この思われた自分を起点にして、一体何が語られようか?
多くの人も多分そうであるように、この自分が何だか分かりゃしないのです。
そうポカンと思っているだけでなく、意識が飛びそうになり、本当にどうにかなりそうになった時、じわーっとそこに臨んだものを通して、自分がかく在らしめられていることを実感されたことがベースになっているのです。
私はお粗末ながらも、そのあらましを伝える語り部みたいな者なのかもしれませんが、真の主体ではないのです。このものあっての私なのですから...
そのものを差し置いて、私は在るとも無いとも、悟ったとも言える訳が無いのです。
主に取って代わることなど出来ません。
その光の照射を受けて確かに私は無くなったようになりますし、又、逆に私がすべてになったようにもなりますが、それはそのものにあってのことなのですi
この私を起点にして、そういうことにしてしまったら、虚無のうちに自己が消え去ってしまうか、それと隣り合わせとも思える、エゴ性をますます強めて、限りなく肥大させてしまうことになるかもしれません。
いくら直接的と言ったって、直接向こう岸には行けません。渡るもの、乗るものというものは必要なのです。
つまり伝わりやすい表現で言えば、私は"ご本尊様"みたいなものを戴いているのです。と言っても通常理解されているような意味合いにはならないのですが...
いつも現臨とか見えざる導師、みたま親など、意味不明の表現で言い表しているのがそれであり、阿弥陀様、弥勒様、主イエス.キリスト、スサノオノミコト...各宗教で奉じられているご本尊は、その"みたて"というか、象徴的、仮現的表現と言ってもいいでしょう。
勿論各宗教を信奉している人の中には、その名で呼ばれているものがそれ以上の意味を持っていることもあるでしょうけど...
それは単純にハタラキと言ってもよく、それと切り離されないものですが、それだけではあのリアルな"人格的瞑合"、"一如"という事態の感じは伝わってきません。
信仰対象としての本尊に囚われると、自己とそのものが分離してしまいます。何よりもそのものは"神、導師、真我"というものが心象の中で一つに重なり合っているのです。
そしてそのものにある時、この私はそのものと一如のものとされる...
そしてそれは又、人一倍エゴ性の強い、自意識過剰な私の落としどころなのです。まさに私の救世主ですi

観方、感じ方はそれぞれなれど、私に示されたことを書いているまでです。
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私は私でないほど私になる

2018-10-16 04:21:35 | 求道、探究
人間は常に何かになりたがるものです。
精神的な道では、悟った人に、神と一つに、宇宙的自己になろうと...
人一倍エゴ性、自意識の強い私は御多聞に洩れず何度もそんな思いに駆られてきました。
でも、そんなことになればなるほど、何になろうとしているのか分からなくなります(笑)
そして、そうなろうとしているのに、なるべき、あるべき自分とは程遠い、否マトモな人間ですらなれないような、しょーむない自分を見せつけられて、ホトホト呆れる思いにさせられるばかりです。
そんな自分はどんなに高い境地になろうとしても、いつまでたってもそうなってくれません。
しかーし...ここ数年段々そういうしょーむない自分とは別に、宇宙的自己みたいなものが顕わになってくるのを身に覚えています。
顕わになるということは、なろうとするんじゃありません。なっているんですi
"段々段階を上げていって、悟りのレベルを登り詰めて..."なんてのは知らないi
それは元よりこの自分の与り知れないものですが、既にそうなっている、その出ようとするものを感じるほど、そのものとの連なりが強まってくるのを覚えてきます。
つまり私は私でなければないほど私になる感じです。
何故そう身に覚えてくるのか...これはコツと言ったらヘンですが、私は味をしめているのです。
悟ることを諦めたら、常住息づいているものを覚えるようになった...意識が向く、向いちゃう...
要するに何かになろうとしなけりゃいいのですi そうなるのを諦めたらいいのですi 手放すことi
どうしたってなれる訳が無い...だから...なっているものに、顕れ出ようとするものにまかせられるのですi
"ああ...なろうとしてるのになれない...ああ、又、ダメな己を出してしもーたあ"という、自意識過剰特有の強迫観念に囚われることもあまりありません。
そうなろう、なろうとすることは、苦闘に明け暮れたことのあるご同輩ならば、段々エゴ性を強めるばかりだということがお分かりになるでしょう。
すると又、"このエゴがっi オノレーッ"と、飽くなき格闘に明け暮れる日々が...もう一人の私はかく言う...
"ご苦労さんなこったi"
とにかくチッポケな自分など手放して、この中に息づいているものにまかせる...宇宙的自己と一つになってくるようになる...
"それはどうにも始末におけない、このエゴ性など放っとけi"ということです。
そもそもこうしたことは、初めてあの光の照射を受けた時に個我の縛りが突破され、無力化された時に示されていたことなのです。
自分なんか問題じゃないのですi 問題の無いもう一つの桁違いな自分がお在すのですi
私はそのものから告げられているのです。"お前が出るんじゃない、私が出て行くのだi"
だから問題だらけでも、問題は無いのです。
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個と普遍の開示

2018-10-14 11:58:19 | 秘教、その他団体
命位様が私に合って戴いたのは、その多くはあくまでもパーソナルな関わりからでした。
大調和協会の会掌としてではなく、一人の人間(そうであって、そうでないような...)として私に合ってくださったのです。
実に勿体ない話です。
でもその私が協会につながることを願っておられたのも当然のことです。
私は大調和協会、その宣べ伝える大調和世界観というものに全的に頷けないもの、赴けないものを感じている...当時の私はここで自分の内面のことを自由に表現出来るには些か口が重く、協会の人たちからは、"一体コイツはどういう人間なのか、何でこんなところに来ているのか分かりかねる"人間に映っていたことでしょう。
命位様からは何度もこんな言葉を聞きました。
「あなたがモノを言ってくれたら大きいんだがねえ...あなたにとっても、協会にとっても...」
我々は自然(じねん)にその関係が開かれることを願っていたのです。
ある時、その核心に触れるような問いかけを命位様から出されたことがありました。これは果たされませんでしたが、命位様が亡くなるまでに徹底的に触れざるを得ないことになったであろうことです。
「協会がどうあったら、あなたの存在が頷いてくれるの?」
私はたどたどしく答えました「私の中にあるものと協会が宣べ伝えようとしているものはおそらく同じものでしょう。しかし、どうしても協会と私の間には障るものが感じられてならないのです。何かが溶け去ってくれないのです...」
これは私がこれまで関わった幾つかの特定の団体、集団に向けていたことでもありました。
"今までの宗教の有り様と協会が掲げる大聖業(おおみわざ)とはかくかく違う...今までの宗教的悟りの世界は個を基盤にしていた、大聖業は関係が基盤になっている..." 私にはこうした普遍的全体から協会を特殊化して、切り離してしまうような言説がことごとく内的に障って仕方がなかったのです。
私がいつもこの普遍なるものとして言い表しているものは、ある感じに基づいているのですが、それは端的に言えば"普ねく開かれている"感じのものです。それはどこまでも開かれているのですi 何よりもこの個と思われた自己が開かれているということなのです。
障るものがある、閉じたものがある...それではここで言っている普遍なるものは生きてきません。
個は個でありつつ、普遍なるものとつながっている...それはミクロコスモス、宇宙的自己の開示であろう...
それはこのちっぽけな自分が到達するとか、段々段階を経て進化するようなことでなく、正しく個にして普遍的なものの開顕でなくて何であろう...
まるで何かが乗り移ったように、私が聞き馴染みのある大調和世界観みたいなことを書いていますが、私には個人の、その次元にとどまるような悟り、覚醒というものは認められないのです。
こうしたことがある教条のようになってしまうと、自己と分離した感じになってしまい、それに信従して行くという数多ある宗教と変わらなくなってしまうのです。
信じ従うのでなく、人それぞれの内なるものの開示無くして、普遍世界の開示も無いでしょう。逆もあり得る...個なるものと普遍なるものは不離のものだから...
開かれるということの無い時、普遍的なものは、どこにも生きた普遍性の感じられない、似て非なる"公共的次元"に成り下がるだけでしょう。
こういうことは今だから口が軽くなって書けるのですが、命位様は私にずっと息づいていた、このようなものも見抜いておりました。
それだけに私が協会に引き合わされた意味について、思いきりブツけたいというのが念願だったのです。
それでその障壁が解かれたかどうか、余計溝が出来てしまうことになったかは分からないですが...
協会、そして命位様とのつながりは結果的には挫折した形になりましたが、そこから受けたものは今もなお私の中に息づいています。

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