人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

歴史は生きている

2018-12-20 18:04:00 | 哲学・思想
歴史というと、ほとんどの人は、動かしようの無い決定的な、我々の主観など入り込む余地の無い、全く客観的な過ぎ去った過去のモニュメントと捉えていることでしょう。
過去というものが"既に"そう感じられているのです。
歴史の教科書と言えば、"O年O月O日、これこれの事があった"と、あたかも墓標に記された文句の羅列のようです。
でも、その歴史を生きていたのは、その年輪を刻み続けたのは、我々一人一人の生きた人格だったのです。
客観的な墓石のように固定化された歴史では、起こった事象は何一つ変わることがありません。
でも、例えばその木に刻まれた年輪にも似た、好きな音楽のレコードに針を落としてみると(今じゃ、指で"ぴっ"とやればいいだけで、こういう試み自体がウンと歴史的なんですが)...全く同じものを聴いているように感じないこともあるでしょう。
映画にしても、再鑑賞してみると、かつて観たことが、錯覚に思えるほど印象が異なり、新たな発見も少なからずあります。
一人一人の過去のモニュメントは決して既に決まったもの、死んだものでは無いのです。
我々一人一人の歴史を形成する人生は、決して歴史の授業では無理矢理覚えさせられる、特定の年月日によって規定されてなどいないはずなのです。
その時、何があり、何を感じ、何を思ったか...一人一人の歴史を彩っているものは、こういう主観に基づいたものであるはずです。
世間で言う歴史というものは、極度に客観化され、一般的な人間、社会的人間に合わされたものと言うことが出来るのでしょう。
そこで映し出されているものは、社会の上層部の事ばかりで、我々のうちに根差したものは反映されません。
しかし、個々の"私史"を生きたものにしているものは、圧倒的に後者の方ではありませんか?
それもそのはず、生きた人間というのは、具体的な人格を有した人間のことであり、規格化された人間というのは虚構の中にしか居ません。
規格に合わされた歴史では、主観性は極力廃されているとも言えます。
そういうものだったら、"歴史小説でも読めi"と言っているようです。"分かったi、んじゃ退屈な教科書なんかよりそっちの方がいい!"
そう...小説、伝記、詩でも音楽でもいい...生きた人間の歴史の表現というものは、物語性を帯びるものです。
例えば、ある歴史の伝達の中で、個々の人間の証言というものが、如何にその有り様を"物語っている"ことかを知ることが出来るでしょう。
客観的歴史は、物語的なものと違って、いつ接しても、誰が接しても変わりばえなどしません。まるで数字と接しているみたいに無機質な感じです。
これに反して物語的な歴史は、そこに実に生き生きと、肉化したものが織り込まれ、起こった事象は同じで、変わらなくても人によって解釈も違います。
それは何よりも、一人一人の"私史"を紡いでいる人格というものが、他に代えられないものだからです。
その私史を掘り下げてみれば、そこに本当に生きてハタラクものが息づいていることを見い出すことが出来るでしょう。
歴史は決して墓石の下に封印されてはいないのですi
生きた歴史は、否、歴史の中に息づいている生命は、その人の現在を、未来を変えることもしばしばあります。
過去は現在によみがえり、又現在生きたハタラキに触れることにより、過去は思われたものでは無くなるのです。
我々一人一人の生きた歴史が客観的な歴史に反映されるならば、人類の歴史も未来も変わる...かもしれません。

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幸福は願わずとも叶えられる

2018-12-18 11:58:31 | スピリチュアル
人間は誰しもが幸福を求めています。
今日の物質的繁栄をもたらしたのは、我々の飽くなき幸福の追求にあったと言っても過言でないでしょう。
そう、それは飽くことを知らないのです。
それはまさしく、"これを得られればそうなれる"という、幸福をもたらすモノあっての、実に物質的なものに則したものと言えるのでしょう。
幸福の追求には、モノの追求というものが結び付いている訳です。
そしてそこに"今よりももっと幸福を"、"この幸福がずっと続いて欲しい"という欲求も働き、いよいよ幸福であることと、モノを得ることとが無限ループに嵌まったように、我々をそこに駆り立ててやまなくなります。
これを思う時、「サピエンス全史」で述べられていた、幸福につながるような快感をもたらすという、脳内物質は一種の麻薬かとも思われ、いずれそういうクスリが麻薬と取って代わる時代が来るのか、とも感じてくるのです。
ラマナ.マハルシは、このような我々が望んでいるものと共にある時幸福に感じ、望んでいないものと共にある時不幸に感じるといった、相対的な幸福は「むしろ"快楽"と言われるべきである」と述べ、絶対的、恒久的な幸福と区別しています。
こういうことは、例えばあの、楽しい、OOOをした後のこととかを思い浮かべてみたらいいでしょう。
泡沫のようにあの幸福は消えてしまった...残ったものは虚しさだけ...
この他欲しいものが手に入ったとか、なりたい自分になれた、その後のことでも、大体がこういう心境にさせられるものでしょう。
そして幸福から一転不幸になった感じがしてきます。きっとセロトニンの効果が無くなってしまったのでしょう。
でも...ほとぼりから覚めた時にじんわりと、普段表層的な意識に上らない幸福があるのも確かに認められるのです。
そこでは、それまで心情を支配していた不快な、好ましくない感じだったものが、いつのまにか平安な感じへと化されているのです。これは不幸なこと、不快なことを自ら背負うという、ヤセ我慢?とは関係の無いことです。
これも又セロトニン効果の復活なのでしょうか?
これはしかし、あの絶頂感へと駆り立ててくる快感とは全く感じは違うものです。
そもそも何故我々が、泡のように消えてしまう幸福へと駆り立てられるかというと、満たされることが無いからでしょう。そこに常にある幸福と違って失ってしまうからです。
留まることを知らない無限ループにはまり続けるだけ...全く人類史、世界史を創り出しているのは、かごの中で車輪を足で駆け回し続ける、マウスと大して変わらない、サピエンスだということが思い知らされるではありませんかi
それでも我々は幸福の追求に終止符を打つ訳には行かないのです。"出来ないだろーっi...私は賢者でもなんでもないi"
"幸福ばかりを追い求めていないで、自分の好まないこと、嫌なこと、都合の悪いことも率先して求めるべきなんですよi"って...そんなごリッパなこと出来るかi...私は苦行僧じゃないi"
イヤでも不幸、不快なことはやってきます。逃げないで受け入れなきゃならないこともあります。だけど、自分でそれを求めるなんて...そうしたい人はどうぞi それはきっとウンとデキテル人か、イヤというほど苦悩を味わった事の無い、ノーテンキな人かどっちかでしょう。
人間が幸福を追い求めるのはごく自然なことでしょう。不幸を追い求めるなんて不自然過ぎます。自然であるとは、それが本来のものだからです。
それは外向きの、表向きの幸、不幸の向こうにある幸福のことです。
幸福になるには神に祈り求めねばならない? 神にあれを下さい、これが叶えられるようにと願う? 何でもいいでしょう。それも自然なことだと思います。
でも...ただ神を意識しただけで幸福に満たされるというのは...幸福は神的なものと共にある...幸福は願わずとも叶えられるのです。
人類はそろそろ見かけの幸福の飽くなき追求に疲れてきているように感じています。
こっちが追い求めなくても、あっちが追っかけてくる...

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「サピエンス全史」の裏側

2018-12-16 12:44:16 | 人生の裏側の図書室
ヘソ曲がりな私は、このコーナーであまり有名な本は取り上げないのですが、数年前"全ての人類必読の書i"と話題になった、この書物をその端くれとして読まないわけにゃいけないだろうと、遅まきながら何かの声の促しに負けたのか、読んでみた次第です。
「サピエンス全史」ユヴァル.ノア.ハラリ著(河出書房新社刊)
著者は気鋭のイスラエル人の歴史学者とのことですが、内容は生物学、人類学、社会学など実に多岐に及んでいて、とても簡単に把握出来るものではありませんが...私はこんなんで、"人類サピエンスの全ての歴史"など語り仰せることなど出来ないことは分かりきった上で、ごくかいつまんで、この書が描こうとしていることを言い表してみたいと思います。
それは..."我々人類サピエンスが、今日まで、過酷な自然観境や他の生物などの外敵との闘いの中で生存、繁栄させてきたのは、集団化、社会化する意識形態を有することが出来たからである"、ということです。オシマイi
って...これで済む訳が無いのですが...その多角的な角度からの素描、分析はこの上下巻に比較的読みやすく、面白く描かれているので興味あれば当たってみて下さい。(とてもここでは書ききれないことの言い訳?)
この集団化した意識が媒介する、その反映しているものがどんなものかは、現代の我々でも簡単に理解することが出来ます。国家、民族、国際社会、法、思想主義、信仰、貨幣価値...要するに世の中がそう言っている、そう信じている全てのものと言ってもいいかもしれません。
そこにはそう在らしめているような、神に等しき中枢みたいなものも何となく感じられるでしょう。
でなきゃ、そんなものほっといて全くかまうもんか、ってもんでしょう。
著者はそれらはことごとく虚構の上に成り立っていると言います。なるほどそれらにホントの実在性など求められません。
しっかし...虚構ってのは、何でこうも重たいものなのかi この重圧のために毎日誰かが死んでいる...要らぬ争いは絶えない...他の生物もサピエンスの存続さえも脅かされている...
人類サピエンスは地上最強の生物であり、"最恐"、"最狂"の生物でもあった!
後半では、この我々の繁栄は我々に果たして幸福をもたらしたのか、ということに記述は及びます。
ところが、その幸福というもの自体も虚構のものにすぎないらしい? 例えば物質的に豊かになる、欲しいものを手に入れることなどが幸福にはつながらないのは全くその通りです。
幸福とは客観的その対象物と、主観的快適感情といったものの相対関係で成り立っていると著者は言うが...幸福は自分がそう感じなければ何になろうが、何を得ようがそうではない、と私は感じています。
著者は、幸福という感情をもたらすものは、生物学者が突き止めたという、セロトニンなどの脳内物質の分泌によるものだと強調しています。
それが分泌されると、快感が認知されるらしいです。幸福感は必ずしも表層的な快感、不快感(こうなっている時は、不幸)とはつながらないと私は思いますが...
これが問題に感じているのですが、それは先のようなうわ部の短絡的幸福追求の歯止めということに関しては意味がありますが、それで全て分かった事にはならないでしょう。その生物学者は、常時幸福感にあるという、オメダタイ人間でなければそういう決めつけなど出来ないでしょう。
この箇所を読んでいると、近い将来、幸福を人為的に操作出来るようになる日が来るような予感を覚えますが、実に暗澹たる気持ちにさせられます。著者が終わりの方で引き合いに出していた、フランケンシュタイン伝説と同じ道を辿ることになるのではないか?
幸福は決して研究室や実験室からは得られないものでしょう。
そして一個人には人類全ての歴史のことなど到底理解出来ない、という当たり前の事に突き当たります。
私がこの著から受けた印象で、ここに書かれていること全てが、「サピエンス全史」では無いということも言うまでもありません。
それは、全サピエンスを構成するであろう、一人一人の"自分史"に照らしてみれば自明のことです。
私は社会的生物としてだけで生きてきた訳じゃないのですi 毎日毎日嫌でも社会的生活を営まされているのはそのとーりです。
でも私の自分史の中で、その事が際立って印象に残っていることといったら...ほとんど"覚えちゃいないi"のですi(社会的役割の事などそこから離れれば瞬時に忘れてしまうし...) もっとも家族や友人関係をそれに当てはめれば事情はかなり違っては来ますが...
個々の生が集団化した時にこのサピエンスの歴史が成立し、その集団精神の血と汗と涙と大いなる幻想と無駄(?!)のドキュメントを通して今日我々はそれに触れることが出来るのでしょう。
そして私の個人的な内面のことが反映されない「サピエンス全史」など多分虚構でしょう。
我々は今日も嫌でもなんでも、この虚構に満ちた生を生きなければなりません。
でも我々一人一人が、"世の中という神"の声だけに従うがままにされることなく、私自身の神の声に耳を傾け、それが我々の総意的なものに反映されるならば、サピエンスの全ての歴史も変わるかも...しれません。




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普遍なる我

2018-12-13 12:21:56 | スピリチュアル
「一つの太陽の光線が、千紫万紅、色とりどりの草花に咲かしめる如く、キリストの光は個性に一層の輝きを増し加える。個我が個性をのばすのではない。神なる普遍我(キリスト)が個性を咲かしめるのである」(手島郁郎)

いつも感じていることなのですが、この"あるもの"のことは、どのように言い表していいか分かりません。
現臨、神的なもの、ミタマ親、ガイダンス、真我的なもの...ある宗教、例えばキリスト教に縁のある人には、それがキリストとして捉えられるのは、ごく自然なことでしょう。
けれど、それが言い伝えられ、教えられたままのところから、その内奥にあるものに触れることが出来るならば、さらに広く、深い理解がもたらされると思います。
手島先生の言葉からは、その辺りの消息がヒシヒシと伝わってきます。
私がいつも、"このもの"について書き表しているものは、抽象的な宇宙の"絶対神"とか、"全体"、"ワンネス"というような言葉で言い表せるものではありません。
仮にそういうものと一つになったと言いますが、その自分は消えちゃうはずで、一つになりようもなく、言われるように私という個は無くなってしまいそうです。
又逆に、そういうものと仮に一体になってしまえば、このちっぽけな私が直ちに絶対神、宇宙的全体になって、途方もない自分になってしまうのですi こういうことは思い描くことは出来ても、現実的にそういう有り様で生きるのは多分不可能でしょう。
このように、私とこの宇宙的全体とつながることで、私という個人は居なくなってしまうか、スゴい個人を演じる、あるいはそう思い込むしかなくなりそうです。
"つながる"と言う。本当につながることが出来るのはこのものにあっての事ではないでしょうか?
このものとは、私という個人たらしめているもののことです。このものあっての私なのです。
"私はここに在る"という実感もここからくるのです。
このものにあって普遍性に開かれるとは私もしばしば言ってますが、それはこのものご自体が、個と普遍を結ぶ当体だからとも言えるのですが、さりとてそういう存在論的に言い表すことも困難でもある...そして又具体的にキリストとかアヴァターとして顕れることもあろう...要するに永遠のXなのだろうか...私には年中Xマスなのですi
このものはもはや抽象的に、第三者的に説明的に言い表すことは出来ませんi あまりにも自己でありすぎるので...
それはしかし、直ちに私がそうであるとは決して言えないのです。私はチッポケなその部分的表れにすぎないのですから...
最近のスピで"既に悟っている"とか言われるのは、この普遍的な自己についてのことであり、思われた自己についてのことなど実に僭越なことと言う他ありません。
又、悟りを求めて、どういう境地に達しよう、どういう心持ちになろうと色々試みてみる...しかし、中々そういう心境にはならない。
それは限りある私から初めて、限りある私の中で、こっちの心境から、あっちの心境に動いただけのことかも分からないのです。
そうして、そうならない自分と闘い続けなければならなくなるのです。
このチッポケな私の落ち着くところは、今のところ"このものにある"、小池先生的には"エン.クリスト(キリストにあって)"ということであり、又"内なるこのものを戴いている"ということになるでしょうか...
そして、そういう境地になろうとしなくとも、向こうから顕れて下さるのです。ただそこに南無するのみ...



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人間関係の裏と表

2018-12-12 12:14:12 | 哲学・思想
今、問題を抱えている人、勿論私も含めてですが、何が問題なんでしょうか?
会社や家庭などの人間関係? そうでしょうとも...そうでなくても、"今日の昼飯代が無い、どうしよう"って経済問題? これも社会との関係に起因することですね。病気、怪我? これも働けなくなる、とか社会生活と関わってくることです。
考えてみたら、問題のほとんどは自分以外の他者との関係に起因していると言ってもいいのではないでしょうか?
毎日のように報じられる殺人事件、それが基で今日もどっかで誰かが自ら命を絶ってしまうのです。
そしてテロ、紛争...すぐ火がつくかもしれない核戦争の危機...環境破壊ということにしたって、社会集団という人間の関わりが無ければ起きない問題でしょう。
人間関係こそが問題の種、諸悪の根源ではないかi、何故そんな厄介なもの背負って生きなければならないのか?
"私が私であること"だけで生きていきゃいいだろ...って、この関係性の無い世界など想像したことが無いi どうしたって出来ませんi
無人島に独りぼっちになったら、とか夢想ならいくらでも出来ます。そこへ好きな本とかレコードをもって行きたいとか...もう、その関係性の産物に関わってるじゃないかi
物心付いた頃から、そういうことになっていたんだからしょうがないのです。
それにしても..."ああ、イヤだ、イヤだ、声のデカイ人、でりかしいの無い人、隣の席で貧乏ゆすり、いつまで頭をポリポリやってんだ、ばーかi"
"ややこしい人間関係はまっぴら...無人島はいいから猫の島へ行きたい(マジで)i"
かように私は人間嫌いなのです。だけど...私は猫人間、二重人格です。相反するものが同居していていつも途方に暮れてます。
そして...忌まわしき地獄の様相を見せる人間関係の裏にあるものも知らされています。
それは、他者との関わり、つながりにある自己とも言うべきものです。
自己があり、他者があり、相依りあって関係するというよりは、原初からそのつながりにあるという有り様なのです。
仏陀の縁起というものは、おそらくその消息を伝えているのでしょう。
そも"私が私であること"とはどういうことか?
これは自己を他者と分かつ方に、意識が赴くことでもたらされる自我感覚とは異なり、他者とは分かたれていません。しかもそこにキョーレツな"私性"がある...その"私は在る"感のインパクトたるや、自我感覚からくるものの比ではないのです。それは"私だけ"からは来ない...このつながりからもたらされるのでしょう。
つながりにあるということで、個性というものは?、とは感ずるも、その個性というものは、ここに初めてアリアリと実感されるのです。
("何でそーなるのか?"と言う向きもおられるでしょうが、私は途方に暮れるばかりなので、もっとエライ人に聞いて下さい)
そこには現実世界の人間の集い、幾多もの社会的集団のように、その各々の別個に設える中心位格というものはありません。
相克、闘争の種はどこから来るかと言ったら、幾つもの"正しい中心i"が他に向けて発信され、ヅカヅカと干渉し合うところからと言ってもいいでしょう。中心というのは私自らでは求められません。自ずと意識が引き付けられるある焦点が中心なのです。
私も、つながりにある他者もそのように在らしめられている...個と普遍の調和世界...これを天国の消息と言わずして何であろうかi
あの忌まわしき人間関係というのは、これ在るがためだったのではないのかi
(全く人間ほどバカバカしくも、愛おしいものは無いではありませんか...)
然るに...こんな自明なことが何で現実世界ではそーなっていないのか?
もう、"アフンi"となるしかありませんでした。
そして否応なく現世に戻らされて...途方に暮れるしかありませんでした。
行き着くところまで行ってしまった感のある、この人類社会...どこに突破口があるのやら、途方に暮れるばかり...
だけど...
自明に感じていることって、どういうことなのか?
そうなっているってことなんじゃないでしょうか?
少なくともこれからそうなるものを目指してしているものには、そういう感じは持てません。
地上天国というものは、永久に(見えるように)建設され得ないものなのかもしれません。
ただそういう実感はいつ開かれるか知れません。
裏表というのは、レコード盤のように、一枚になっていてひっくり返したら裏面になるようなのを言うのです。
想像出来ないことは、簡単に想像出来る...ここに在るかのように...そう在らしめるものと共に...
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