人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

愛と知と男と女

2019-03-05 11:53:43 | 雑感
精神的な道では、多く愛というもの、真理というものが求められています。
愛というものはそのままのようですが、真理を求めるには知性的でなければなりません。
愛は多く女性性と結びつけられ、知は男性性と結びつけられています。
この人間人格を規定する二つの性質は時に相容れなくなるようです。
二重人格者である私は、元々分裂しているのであまりそう感じません。
私には竹を割ったような、"てやんでいi"てなところとか、やたらと理屈っぽく(それとかなりのH性?)男っぽいところもありますが、自分の中の女性性もハッキリ感じています。それはこうして書かれたものに反映されているかも分かりません。
愛に片寄れば盲目、耽溺となり、知に片寄れば冷淡となり、潤いが無くなる...
この愛と知というものは、どちらも欠くことなく、バランスよく調和されていることが望ましいのは言うまでもありません。
世の中には、この二つの性質のどちらかに優位をもたらそうとする向きもあります。
もっともこの目論みは、常に戦い続けずにおれない男性性からくるのでしょうけど...
優劣というハカリを持ち出すと、どちらも上にも下にも行かない、収拾のつかない事態になりそうですが...どちらがより本来的、根底にあるか、ということであれば私にはハッキリ示されています。それは現臨に捉えられた時に分かります。
これは愛と知というより、感性と知性に置き換えてもよいと思いますが、知性に通ずる思考機能はそこでストップが掛けられますが、愛というものを実感することは出来るからです。
しかーし、"一寸待ったi"...頭でっかちな野郎どもは、そこで形無しとなるのですが、別の知性がそこに立ち上ってくるのです。
それは男性性のステータス?である知性ではない...全く思考を超えた原初的な知性とも言うべきもので、それは思われた自己の属性ではなく、自己を超えた真の主体者からくるのです。
それについて考え巡らすことは出来ず、感じることしか出来ません。
それは私が"照明"と呼んでいる、他者から観照されること、自己のすべてが照らし出されているという感じにより知らされるものです。
それにより、リアリティというものが写し出されるのです。
この感じは、あの底無し沼に引き入れられるような、通常感じられている感情というものを完全に超えています。
野郎どもは、これで溜飲が下がるだろうか?
しかーし、"一寸待ったi"...この知性は愛と一つのものになっているのです。少なくとも私には、この二つのものが切り離されたものとは感じられません。
そして、愛とリアリティを感じている時、平安にあるのです。
このように、人間の本来性には、男性性、女性性とどちらとも分けられないものがあるようです。
そうしたものを人間の中に求めるとしたら、生まれ赤子ではないでしょうか?

生まれ赤子の如くならずば、天国に入れない...
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自由と普遍

2019-03-04 12:19:46 | 哲学・思想
私は様々な異なる宗教、精神的な道に対しても、こだわりなく接することが出来ます。
それは私が自由で居られるということであり、どっかで普遍性を求めていることでもあります。
私は自由と普遍なるものを希求してやまないのです。
何故ならば、それは神的なもの、我が正師と共にあるということを意味しているから...
実に自由と普遍とは、このものあってのものなのですi
それはしかし、一度この内なる絶対的領域の外に出てしまえば、夢想の彼方へと消えてしまうものなのでしょうか?
例えば、普遍性というものを客観的世界に見い出されるでしょうか?
私が感じている普遍なるものと、あなたが感じている普遍とは違うものかもしれません。
その他大勢が言っているそれはもっと違うでしょう。民族、宗教、イデオロギー等によって、バラバラに切り裂かれたものに普遍性など見い出されるべくもありません。
このように我々は普遍という言葉を安易に使っているけれど、その真態は知らないのでは無いでしょうか?
それは未だこの世に実現したことが無いものとも思えます。しかし、そういうものはいつの時代にも我々の頭の中には思い描かれては居るのです。それは意識されずとも、上記したように我々の内に根差したものだから...
普遍なるものに比べると、あまり我々は実感することが無いかもしれませんが、自由というものも本当には与ることが出来ないでしょう。
本当に普遍なるものを実感するならば、本当に自由なるものを実感するだろうから...
自由と普遍とは切り離すことが出来ないのです。
自ずから由ることと、普ねく、遍(ゆき)わたることは共に障るもの、隔たるものが無いということでしょう。
少なくとも私は"全体だけがある、個的自由は無い"、と感じたことはありません。そこに矛盾は無く一つのものになっているのです。
然るに、この見える現実世界には何とこの二つのものは、相反し、両立の叶わないものとされてきたでしょうか?
この世界には普遍性は見い出され得ない...それに取って代わるものは、普遍そのものならぬ"普遍妥当性"、公共性、社会性などであり、もっとも自由を脅かすものとして悪しき全体主義(カルト宗教などはこれの局部的に圧縮された形態と言っていい)が設えられる、ということはこの見える世界の歴史が物語っているとおりです。
客観世界では、普遍なるものは外から押し付けられて自由を圧するばかりとなるでしょう。
それを実感する各々は居るかもしれないが...
そうです。それは我々一人一人の主体の内に開かれるものなのです。神的なものの臨在と共に...
各々と言っても、それは単純に一個人とは限りません。その場で交流し合って居る複数の各々に神的なものが臨在することはあり得ることです。
一個人の場においても勿論そういうことは起こり得るものですが、本当に我々が自由と普遍を実感出来るのは、そういう様態にあることなのかもしれません。
少なくともそこで初めてそれを共有出来るとは言えます。そこに神の国の雛形を見い出せるでしょう。
神の国は、客観世界に見える形では実現しないでしょう。見える形のそれはどこまでもその実現に向けられた夢想のユートピアにすぎません。
神無き神の国、ユートピアというものほどのギマンは無いi
神の国の実現とは、我々の内に開かれたものが、そのまま見える世界に移写されるものでしょう。
それは神的なもの自体の自己実現なのかもしれません。

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正師の下に

2019-03-03 10:26:11 | 詩的文章
私の心はいつも閉ざされている...
容易に他人を容れようとしない
他人に自分を明け渡すことなど全く有り得ないこと
それが、この不落の砦がいとも簡単に陥落してしまうとは...

私は正師にまみえた...
姿は見えずとも...まみえたのだ
いや、私はこれまで何にもまみえたことなど無かったのだ
本当にまみえるとは、見ていることではない
そのまんまがアリアリと在ること
現臨...
全身全心全霊が師のものになってしまった
この師の他に師は有り得ない
この師の教えはすべてが直伝
人伝に聞いたり、教わるものでなし
直に私のまっ中心に伝わるもの...
この世には諸々の教えがあれども、
真の教えは一つしか無い
私のまっ中心に届かない教えなど何になるだろうか
聞いて、信じて、従う教えなど何になるだろうか
この直流に与かれば、全身全霊が揺さぶられずにおれない
そして、諸々の教えはこのまっ中心へと通じている...
すべてで一なる教え
我が師こそがすべてで一なる御方...

我が師は全く何もかもが超えられている
私からは決して師には近づけない
師の臨在によってしか近づけない
それは彼方からの臨在なのか...
それとも、まっ中心からの顕現なのか...
どちらにせよ、私の思議を超えたもの
この思われた私からは全く超えられているのだ
私はどこまでも師には近づけず、師にはなれない
師は私以上の、私のまっ中心に居られるから...
師は臨在する...私は正師の下にある
それは、師に取って代わろうとして、師の恩寵を失わないための、
師の思し召し
私は師の下にある...師の臨在を感じながら...
師が私に取って代わることがあるならば...
私は喜んで師に化されよう...



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インドの神秘詩人カビール

2019-03-02 12:23:33 | 人生の裏側の図書室
「個我として一者が内部にいる。内部で光が輝いた」
「お前と私、私とお前、他に誰もいない。お前のような夫、私はお前の生みの親」
(カビール/ラマイニー2連)

中世インドの神秘家カビールの名はOSHO.ラジニーシの一連の講話でしばしば言及されていて、馴染みがあるのですが、我が国ではほとんど文献も無く、どういう人かはほとんど知らなかったのですが、遅まきながら最近その語録が邦訳されているのを知りました。
(カビール/「宗教詩ビージャク」/平凡社.東洋文庫)
大雑把な説明では、バクティ(献身、帰依)を重んじるヴィシュヌ派などのヒンドウー教と、西方より伝来したスーフィーを中心としたイスラーム教との橋渡しをした聖者ということになりそうですが、彼が活躍した15世紀頃の北インドはこの二派に限らず、様々な宗教思潮が交流し合っていたようで、それらの影響もおそらく受けてはいたのでしょう。
しかし、解説によれば「彼は心の内奥におわす"正師"以外の誰の教示にも従わなかった。そのため彼の信条と確信は、明らかに支えのない、彼自身が自分をなぞらえている神秘的な"火の鳥(不死鳥)のようなものだった」といいます。
この"正師"への純一無雑なる帰依というものが、その語録からヒシヒシと伝わってきます。
この"正師直伝"の教えに特定の教派、修行形態への固執など有り得ようはずなどありません。

「カルマもダルマもそこにはなく、言葉も生じず身体も生じない。
そこにはマントラ(呪句)もプージャー(供養儀礼)もない。
統御などの修習もそこにはなく、それを一元[と言おうか]それとも二元と[言おうか]」。(サバド43)
「サント(聖者)よ、こんな誤りが世間にあり、それで個我は偽りに赴く
第一に[人々は]不可分のブラフマンを誤って、[そのブラフマン]の影像を自分と思った。
影像に迷って意欲を起こし、意欲から慢心が[生じた]。
驕りをなして坐ざし、様々な道(宗教)を始めた」(サバド115)

カビールは、北インドの下層市民として生まれ、多く機織り職人として生計を立てていたといいます。
あたかも様々な異なる教えが、正師のもとに縦横自在にタペストリーのように編まれてゆく様を象徴しているようにも思えます。
しかし、世の常というか、カビール亡き後ヒンドウー教、イスラーム教との間で遺骨の引き取りを巡って争いが起きたとか...
そして又、カビール派の開祖として偶像視されるようになってしまいました。
人々はもっとも近いもの、そこからしか何一つ始まらないものを蔑ろにして、道をますます遠いもの、複雑なものにしていってしまうのでしょう。
しかし、正師は時、所を超えて何処に示現するとも分かりません。
この、見えるものが見えにくくなり、見えないものが見えてくる、という現代こそ、不死鳥の如く復活してくるのではないでしょうか?

恋しさに胸が震えるならば、火の鳥が羽ばたく...
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