人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
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魔王の裏顔

2019-03-10 11:40:15 | 雑記
"覆面の魔王"ザ.デストロイヤー逝くi
我が国では、プロレス.ファンを超えて知られた存在でしたが、若い世代にはもう馴染みが無くなっているかもしれません。
謎の覆面レスラー、四の字固め...社会現象になったと言ってもいいくらいでした。
63年春の力道山との有名な死闘は、何と視聴率64%にも達したという...これは私がリアルタイムで知っている、最も古いプロレス試合として記憶されています。
確か決着が放送時間内に終わらなかったので、プロレス中継では異例の時間延長という処置が取られたことを覚えています。
一般のファンの間ではその正体はずっと謎のままでしたが、関係者、コアなファンならとっくに知られていました。
米国ニューヨーク洲バッファロー出身、大学時代アマレスとフットボールで鳴らし、肝入りでプロ入りした「ディック(本名リチャードの愛称).ベイヤー」という、一流の一歩手前くらいのレスラーでした。
素顔のベイヤーの試合は、動画でいくつか観ることが出来ます。いずれも60年前後の地元バッファローでの試合で、私は既に68年頃、テレビ東京系で放映されていた「プロレス.アワー」という伝説の番組でそれらを観ていました。(小6にして私はコアなファンなのでした)
しかし、私が技巧派同士の好試合として印象に残っている、ウイルバー.スナイダー戦を見つけることが出来ないでいるのです。
レスラーとしての格では、当時鉄人ルー.テーズの後継者と目されてもいた、スナイダーの方が一枚上だったでしょうが、互角のまま時間切れ引き分けに終わったと記憶しています。
基礎的なレスリング.テクニックを身に付け、飛び技、ロープを使ったフットボール仕込みのタックルなど、見せる要素を沢山持っていたにもかかわらず、当地でのメインは、"黒い魔神"B.ブラジルや、"鉄の爪"F.V.エリックらに譲っていたようです。
理由はどうもその地味な顔付きと、"若ハゲ"にあったように思われます。これが先に私が"一流の一歩手前"と言った由縁なのです。
そこで思い付いたのが、62年頃マスクを被って、思いきり悪党ファイトを演じて売り出すことだった訳です。(ライセンス取得のためという動機というのは、素顔で他の地域に転戦していたし、イマイチよく分かりません)
米本国では、正式に"ジ.インテリジェント.センセーショナル.デストロイヤー"といい、リング.アナから文句が出そうなくらい長いものでした。
この変身はおそらく、デストロイヤーことベイヤーがミンターとして慕っていた、同じアマレスの名選手から転向し、"ドクター.X"なるマスクマンの悪党に変身して成功した先輩レスラー、ビル.ミラーに肖ったものと思われます。それを裏付けるのは、68年頃彼がミネアポリスを中心としたA.W.A圏に転戦した時(V.ガニアを破り短期間ながら王座に就く)、同じドクターXを名乗ったところにあります。
デストロイヤーは、一部で史上初の覆面レスラーの世界王者(62年、F.ブラッシーからW.W.A王座奪取)などと言われていますが、本当は初代ドクターXことミラー(59年、前記スナイダーからA.W.A王座奪取)が正しいのです。
馬場との関係はよく知られておりますが、猪木との数少ない対戦の中で、71年春の試合は、引き分けながら終始デストロイヤーが押していたように感じられました。
両者の60年代初めの米国修行時代、デストロイヤーの対戦相手としては、むしろ猪木の方が圧倒的に多かったろうと思います。
ロサンゼルス、テキサス、オレゴンなどの北西部とか何故か転戦ルートが重なっており、さぞかし猪木はデストロイヤーの胸を借りたことでしょう。
猪木が67年初夏、日本プロレスに参入した時、切り札にしていた技はコブラ.ツイストでしたが、私はその直前のシリーズで、同技をデストロイヤーが掛けていたのを初めて見た記憶があります。"アレヨ、アレヨと相手に絡みついたと思ったら、どこが痛いのか、ギブアップしちまったi"と、何とも不思議に感じたものです。
おそらく、これは後に馬場と並ぶスター選手となるであろう、猪木のために"コブラ.ツイストってのはこんなキョーレツな技なんだぞi"と、ファンに印象付けるための計らいだったと思います。
多くの人が語っているようにデストロイヤーことベイヤーさんは、頭が切れて、優しい人だったのでしょう。

コメント
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