あなたにとって最愛のものとはなんでしょうか?
イイカゲンなものじゃない..."最も"愛しているものです。
私はいつも何か神的なものに誘導しようとしてるみたい(?)ですけど、それは私のことを言っているまでです。
この弁明を言えば、神のことは、いつもエラそうに言って、色々知識としては知っていますけど、実は知らないのです。
私の思いを超えたもののことを"神的なもの"と言っているのです。
私はそれが何かは知らないですが、そこから愛、平安、リアリティがもたらされることは知らされています。
そして、皆さんにも経験があるでしょうが、最愛のもの、愛してやまないものと共にある時、諸々の思いは超えられているのですi
多くの宗教で信じられている神というものが、如何に余計な思念で塗りたくられ、歪められ、混乱、不調和をもたらしてきたことでしょうか?
"神の怒り、神の裁きは恐ろしい..." 神を信じるという人間がそう言っているだけで、神から直に聞いた訳でもないのに...
宗教の世界では、今でも異なる名の神が争いあっている...
私は強く言いたいi
"神を教える者ほど、神のことを知らず、我々を神から遠ざける者は居ないi"
"神を、宗教の神から解放せよi あなたと私の、一人一人の神へと還元せよi"
もし、一人一人に神的なものが知らされるなら、この混迷に満ちた世界はたちどころに調和に満ちた世界へと化されるであろう...
ある人には最愛なものとは、特定の人物、ペット等々かもしれません。でも私がこの最愛なるものということで、神的という意味合いが理解されるでしょう。
ここで、とてもとても肝心なことで、多くの人が気付かないであろう、盲点について言わねばなりません。
神であれ、聖者、恋人であれ、愛というものは、ある対象があって生まれるものと思われていることでしょう。
確かにその通りで、その対象となるものとの出会いを通してもたらされる、とは言えるでしょう。
しかし、実際にその愛は誰が感じているのでしょう? アホみたいなこと言ってるようですが、実際に自分が感じてなければ、相まみえているものは特別な存在でも何でもないのです。
自分がそう感じられるのは、元々そういうものが自分の中にあるからではないでしょうか?
それが対象となるものが媒介となって、共鳴されて、呼び覚まされたということでしょう。
一度でも、そういうことが実感されたなら、愛する対象が無くとも、その原初的な愛とも言うべきものが、ずっと自分の内奥に息づいていることが知られてきます。
つまり愛そのものは、自己を抜きにしてはあり得ないのです。
もし、神が自己の内なる愛から切り離されると、偽りの明け渡し、狂信が生まれるでしょう。
こうなる人というのは、自己信頼が欠如しているのです。
又愛する対象がこちらの意に添わなくなったりすると、愛は憎しみに変わるかもしれず、それを失うとずっと心は悲しみに沈み、引き裂かれてしまうかもしれません。
この内なる愛は、皮相的な自己愛のことではではなく、"一体、この私のどこにこんな感じのものが隠されていたのかi"と、やはり思いを超えた、全く思いがけないものです。
愛の対象となるものも、この原初の愛と結び付くことで、思われたものではなくなり、さらに別の観方、感じ方が生まれるでしょう。
内にも外にも、ここかしこにも最愛のものが呼び覚まされんことをi
イイカゲンなものじゃない..."最も"愛しているものです。
私はいつも何か神的なものに誘導しようとしてるみたい(?)ですけど、それは私のことを言っているまでです。
この弁明を言えば、神のことは、いつもエラそうに言って、色々知識としては知っていますけど、実は知らないのです。
私の思いを超えたもののことを"神的なもの"と言っているのです。
私はそれが何かは知らないですが、そこから愛、平安、リアリティがもたらされることは知らされています。
そして、皆さんにも経験があるでしょうが、最愛のもの、愛してやまないものと共にある時、諸々の思いは超えられているのですi
多くの宗教で信じられている神というものが、如何に余計な思念で塗りたくられ、歪められ、混乱、不調和をもたらしてきたことでしょうか?
"神の怒り、神の裁きは恐ろしい..." 神を信じるという人間がそう言っているだけで、神から直に聞いた訳でもないのに...
宗教の世界では、今でも異なる名の神が争いあっている...
私は強く言いたいi
"神を教える者ほど、神のことを知らず、我々を神から遠ざける者は居ないi"
"神を、宗教の神から解放せよi あなたと私の、一人一人の神へと還元せよi"
もし、一人一人に神的なものが知らされるなら、この混迷に満ちた世界はたちどころに調和に満ちた世界へと化されるであろう...
ある人には最愛なものとは、特定の人物、ペット等々かもしれません。でも私がこの最愛なるものということで、神的という意味合いが理解されるでしょう。
ここで、とてもとても肝心なことで、多くの人が気付かないであろう、盲点について言わねばなりません。
神であれ、聖者、恋人であれ、愛というものは、ある対象があって生まれるものと思われていることでしょう。
確かにその通りで、その対象となるものとの出会いを通してもたらされる、とは言えるでしょう。
しかし、実際にその愛は誰が感じているのでしょう? アホみたいなこと言ってるようですが、実際に自分が感じてなければ、相まみえているものは特別な存在でも何でもないのです。
自分がそう感じられるのは、元々そういうものが自分の中にあるからではないでしょうか?
それが対象となるものが媒介となって、共鳴されて、呼び覚まされたということでしょう。
一度でも、そういうことが実感されたなら、愛する対象が無くとも、その原初的な愛とも言うべきものが、ずっと自分の内奥に息づいていることが知られてきます。
つまり愛そのものは、自己を抜きにしてはあり得ないのです。
もし、神が自己の内なる愛から切り離されると、偽りの明け渡し、狂信が生まれるでしょう。
こうなる人というのは、自己信頼が欠如しているのです。
又愛する対象がこちらの意に添わなくなったりすると、愛は憎しみに変わるかもしれず、それを失うとずっと心は悲しみに沈み、引き裂かれてしまうかもしれません。
この内なる愛は、皮相的な自己愛のことではではなく、"一体、この私のどこにこんな感じのものが隠されていたのかi"と、やはり思いを超えた、全く思いがけないものです。
愛の対象となるものも、この原初の愛と結び付くことで、思われたものではなくなり、さらに別の観方、感じ方が生まれるでしょう。
内にも外にも、ここかしこにも最愛のものが呼び覚まされんことをi