昔からある求道の書、特に仏教関係のものなどを読んでいると、しばしばその求道の在り方に対し「極める、極められていない」とか「徹底されている、されてない」、「一枚になっている、なっていない」などと批評している文章に出くわします。
これは一体、どういうことを言っているのでしょう。極める、徹底されていることというのは、何を基準にしているのでしょうか? 悟っているのか、どうかということ? いや、そんな最近のお手軽スピみたいに"私、悟っちゃってるんですi"、感をふかしているという風でもありません。
私はハッキリと、そのことを言明しているものに触れたという記憶は無いのですが、おそらくその極まる地点というのは、"これ以上は考察、参究が及ばなくなる限界点"のことを指しているものと思われます(こうしてみると求道の中でも仏教は、行と学の二つの道を重んじていることが伺われます。この地点というのは、正しく仏教的には所謂自力、他力というものが、合わさる地点と申せましょう)。
私は行道でも学道でも、真摯に求道したことなどありませんが、何の間違いだか、思考も意志的行為も及ばない地点ー人生の裏側ーに踏み込んでしまったのでした。
だからと言って、いや、そういう経緯があったからこそ、「私は道を極めちゃったんですi」などとは絶対に言える道理など無いのです。
今の一瞥とか覚醒体験者の中には、「人生の、世界の真実を見抜いた、見極めたi」などと宣っている人も居りますが、一体誰が見抜いたと言うのでしょう。
それでもって、"自分という個人がある内は今ダシのもので、究極的には全体があるだけになっちゃうんですよ!"、なんてことに話が飛んで行ってしまうのです。
思考、行為が尽きるという事態そのものからして、この限界ある自己が成さしむるところでは無いのです。
その限界点から先のことは、個が無くなろうと、全体しかないことになろうと、個も全体も無くなろうと、自分からは如何ともならないことなのです。
究極の道というのは、そう頭に思い描かれているものであって、思考の限界を示された地点で、"手放し"となるしかありません。どうしようもないことなのですから...
そこで"私は究極の道に達しましたi"、と宣ったり、"自分が出来る、成せる"かのように言及することは、この有り様に対する観方、感じ方というものに徹底されていないものがある、と言う他ありません。
そして、自分自身からは、これが究極だとか、絶対とかは決めつけられるものではないでしょう。
徹底的に事実に即して、見極めてみるべきですi 一体、何によってそういうことがもたらされたのか? この見極めが不徹底のままだと、"私は悟った、達成者"と、大いなる勘違いが後を絶たないでしょう。
私はこれといった求道によらずに"人生の裏側"を垣間見る(見抜いてなどいないi)ことに与ったのですが、だからこそ(修行はよおしませんが)何らかの考察、参究することを蔑ろにするつもりなどありません(私も時折は、無い頭で考察みたいなことしたりしているのです)。
精神世界、霊的な道の土壌というものが、これまでどれだけ過去の幾多もの聖者、宗教家、哲学者、求道者の真摯な精神、苦闘によって耕され、切り開かれてきたか、計り知れないものがあります。
それと共に、彼らの背後に、見えざる導きが生き、ハタライていたことも、この私に息づいているものと合わさり感じ入っているのです。