人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

それ、本当?

2019-03-26 12:27:23 | 意識、照明
いじめ、バッシング、ネット炎上... こういうものを毎日のように見聞きしていますね。
私は小、中学生の頃、いじめを受けたこともやったこともありますが、いじめ、バッシングをしようという心理というのは、本当に自分の気持ちからそれに赴いてしまうというのでなく、周囲の"何かそうせずにおれなくなる"ような心理が働いて、そうしてしまうことが多いですね。
その標的となる人間に対し、個人的に怨みなどある訳でもないのに、周りに煽られたりして集団心理に呑まれてしまう訳です。
身近な人間ばかりか、タレントなどは、当人がどういう人物なのかロクスッポ分かる訳が無いのに、ただの日頃のウップン晴らしのためにその他大勢の思いに乗じてしまうようです。
ここにあるのは、主体性の欠如以外の何ものでもありません。
それは、自分の本心というものに照らされるということが無いということであり、私がいつも言っている、"意識的になる"、"意識が思いを超えたものに向けられる"ということの対局にあるようなことと言えます。
端的に言えば、そこに何もリアリティなどは感じられないということです。
上記したもの以外でも、宗教的熱狂、思想的アジテーション、大衆的流行...そういうものでなくとも、何となーくある方に誘導するような言葉になびいてしまうことなど、自分自身に本当に頷けるものが無い、多くの付和雷同的な迎合というものが、集団心理、集合的無意識に囚われている状態と言えるでしょう。
そこに如何に神が、真理が語られようと神的なものが臨むことはありません。それは現臨に無いということだから...
こういう諸々の思念が交錯した現代にあっては、何が真実で、何が虚偽であるか見極めることがとても困難になってきています。
容易く他の言動に煽られ、迎合し、衆愚的な思いに駆り立てられてしまうというということは、意識の中心が分からなくなっていることを物語っているのでしょう。
意識の中心とは、しばしば言うように、意識を何かに集中するということではありません。それならバッシングやデマを飛ばすことに意識を集中している者だって居ることでしょう。
それは、意識がハート、神的なものに向けられることで、自ずから収斂されてくるものです。
思われた自分から始まるのでなく、あの自己のすべてを照らすような光によってそうなるのです。
思念や意念といったものとは、異なるということは、そうなった時、自ずと分かります。それは思いが超えられているということだから...
そこには愛、平安、リアリティがある...それに意識が向かわされるということは、全く自然な赴きなのです。だから自ずとそうなる訳です。
自然なる自己は偽ること、誤魔化しは出来ません。それが本心からくるものだからでしょう。
これに反して、内省も無しに集合的無意識へと赴いてしまうようなことは、どこか自分自身でも何かが障っているものがある、不自然な状態にあることが感じられます。
今日、この我々の意識を分かつ両極のハタラキが強まっているのを感じずにおれません。
強まっているということは、どちらも容易くそっちに導かれるということです。
私やあなたの本当とは? 自ずと分かる...。










コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする